島崎藤村と西欧詩2

島崎藤村と西欧詩1 の続きです。東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から石丸久氏による「若菜集」から「落梅集」へー島崎藤村の詩に内在するものの一面ーは海外文学がどのように島崎藤村の詩に影響を与えたのかを解説した内容です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、掲載にあたって、全て現代語訳しております。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

『藤村自身も後に「大西祝は私の青年時代に敬愛した少壮な学者の一人であった」と語ったが、右に言い及ばれたシェレーの一節は、いうまでもなくかの

 “To A. Skylark”二一聯の最終行で、後に夏目漱石が
 「前をみては、後へを見ては、物欲しさと、あこがるるかなわれ。腹からの笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」と和らげなした
 
 We look befere and after,
 And pine for what is not;
Our sincerest laughter
With some pain is fraught;
Our Sweetest songs are those that tell of
Saddest thought.

 にみられるものである。
 「互いに取る道こそ異なれ、同じ翹望(ぎょうぼう)と期待とを遠い先の方にかけて共に出発した」星野天知、北村透谷、島崎藤村、戸川秋骨、馬場孤蝶、平田禿木、上田敏などは、明治二六年一月の末日をもって創刊、ほぼ月刊で五八号にしてやんだ雑誌「文学界」によったのであったが、少くとも当初かれ等に共通のものの一つはいわゆる ro-mantic melancholy ないし sentimentalism の一種であった。彼らが西欧文学の心のやしないの一端は、明治二二年八月「国民之友」に附録されたS・S・Sが訳詩集「於母影」やあるいはテイヌが「英文学史」の英訳本及びモーリイ卿編纂の“English Men of Letters”などにあったのであるが、ペイターの“The Renaissan-ce”もまた禿木を通じて彼らに共感をよんだところのものであった。これにはΛεγει που ‘Ηρακλειτοζ δτι παντα Χωρεζ καζ ονδεν μενει(ヘラクレイトスは万物は流転していやしくも止まることはないとあるところで言っている)というプラトーンの語を題字に引いた結語があり、その中で、さらに les hommes sont tous condammès a mort avece des sursis indèfinis (人はすべて不定期の執行猶予をもって死刑の宣告をうけている)というユーゴーの句を引用して「世にはこのつかの間の人生をただぼんやりと過すものもあり、また烈しい情欲に送る者もある。が、少くとも「この世の子供達」の中で最も賢い者は美術と詩歌にすごす」とペイターは論じている。禿木が「草堂書影」(「文学界」一六号)に「人心の幻境を論」じて「嗚呼何物か我心地をかきたてて、かかる情焔を燃やすものぞ、かかる心涙を湧かすものぞ。宗教か、あらず。哲学か、あらず……これはこれ詩歌美術の幻境にあらずや」と言ったのは明らかに右のペイター所説による。こうした心情において、「文学界」の青年文人であるいは西行、兼好、利休などに思いをはせ、あるいは風流を談じ人生を論じた。「文学界」創刊をみるや、「国民之友」は評して「其特色とは、曰く哀観的基督教文学、……彼等はもと悲哀の快感を味って倦むを知らざるものなれども、ひとしく悲哀の快感ながらも硬種のものを嗜まず、而して軟種のものを嗜めり」といい、同じく「真理」は「知らず其極めて坊主臭きは何の故ぞ遮莫れ「吉田兼好」、「阿佛尼」の二篇の如きは一種特得の人物評にして一字一言悉く涙の結晶なり吾人亦涙を以て之を読む」と論じたが、共に富を失してはいない。少くともそのはじめにおいて、「文学界」には浪漫的な情熱の間に、宗教的な哀観ないし東洋的な感傷が、あるいは中世的な一種の諦念が感じられたのである。

 *

北村透谷は、この間にあって、「余は批評を好むものなり、争うことを好むものなり」と叫んで、「賴囊を論ず」(「国民之友」一七八号)の山路愛山が功利主義を駁するに「人生に相渉るとは何の謂ぞ」(「文学界」第二号)、「賤事業の弁」(「文学界」第五号)等の熱論を以てして、しかもついに passion-上田敏によればこの語を情熱と訳した最初の人は透谷であるというーに身も心もやきつくしたのであった。その情熱的な戦いはつとに彼の讃仰して措(お)くことをえなかったバイロンの一面をおもわしめるものがある。透谷には、しかしながら、その友人櫻井明石が後に評したように「其熱意の内に燃えて名を求むるに急なる、静に其造詣を竣つに堪えず」という傾向がたしかにあったと思われる。その空霊的な懐疑と神経的な焦慮とは、バイロンの「マンフレッド」への傾倒になった「蓬莱曲」(明治二四年五月)の柳田素雄にみることができよう。「心は常に明らけく、世の無情をば睨みつき概きつ喞(かこ)ちけれ」という厭世の気分から、「死すればこそ、復た他の生涯にも入るらめ、来れ死!来れ!……死よ、汝を愛すなり、死よ、汝より易き者はあらじ」と死を欣求する気持への移ろいは一つの飛躍である。評論「巣林子が歌念佛を読みて」の一節に、「其終りを愛情の埋没に切りて『よし是も夢の戯れ』と清十郎に悟らしめたるを見ては佛教を恨むより外なきなり」と論ずる透谷にも、やはりそうした一種の限界はあった。そのごうごうたる熱論も、もしそれ内想に饂釀(うじょう)を欠くときは、声を励まして「眼を挙げて大、大、大、の虚界を観よ」と叫ぶその大声もかえって巨大な歯車の空廻転をおもわせた。このいわゆる人生相渉論において、彼は「文章即ち事業なり」という愛山に対して、山陽や賴朝と違って、西行、シェークスピア、ワーズワース、馬琴などの詩人文客は「直接の敵を目掛けて限ある職場に戦わず、換言すれば天知の限なきミステリーを目掛けて撃ちたるが故に……空の空の空を撃ちて星にまで達せんとせしにあるのみ」と論じ、「頭をもたげよ、而して視よ、而して求めよ、高遠なる虚想を以て、真に広潤なる家屋、真に快美なる境地、真に雄大なる事業を視よ、而して求めよ、爾の Longing を空際に投げよ、空際より、爾が人間に為すべきの転職を捉り来れ、嗚呼文士、何すれぞ局促として人生に相渉るを之れ求めむ」と絶叫した。一年余りをけみして「女学雑誌」(第三七一号)が社説「虚実空撃」に「嗚呼、虚を撃って、実となし、空野に叫んでカゼを引く。知識なき慷慨(こうがい)は、無益の疲労なり。過分の要求は、不平の種を捲くの外なし。審らかに因果の理を察し、明らかに盛衰の道を考え、正しく憤り、適宜に勉め、円満に尽力して、平和に安心し、以て大道を発揮し、人情を温養するは、識者の務めか。夫れ吾党の戦いは、空を撃つものたる可らず」と説いたのはけだし言々句々透谷を批正した辛刺の文字といえよう。この厭世詩家がついに自らくびるに先立つこと二月であった。』

少壮(しょうそう)・・・若くて元気があること。
翹望(ぎょうぼう)・・・首を長くして待ち望むことの意。
慷慨(こうがい)・・・正義にはずれたことを、激しく嘆き憤ることの意。

島崎藤村と西欧詩3へ続く

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