島崎藤村と西欧詩4

島崎藤村と西欧詩2 の続きです。東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から石丸久氏による「若菜集」から「落梅集」へー島崎藤村の詩に内在するものの一面ーは海外文学がどのように島崎藤村の詩に影響を与えたのかを解説した内容です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、掲載にあたって、全て現代語訳しております。この解説も今回で最後になります。読んで下さった皆様方、ありがとうございました。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

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『   *
 かくて、明治二九年、よわい二四にして東北の古都に青春を自覚せる詩人の黙しがちな唇はほどけはじめて、あるいは美を、あるいは恋を、あるいは力を、あるいは愛を、時には当を失するほどにととのったスタイルに歌いあげた。その間に見えかくてする讃美歌調や近世文芸の趣味や星菫派情趣や唯美的な傾向は次第にかげをひそめ、やがて「落梅集」になるとテーマそのものがすでにして生きるいとなみに向けられてきている。「労働雑詠」は最もあきらかなるその一例にすぎない。この詩集に「雲」と題する散文がおよそ三○頁にわたって収められ、時をおって変容する雲の姿を細叙し、附するに二葉の表を以てしていることは周く人の知るところ。その中に「ラスキン古代の画家を嘲りて曰く、彼等が雲の思想は全く一様なりき。運筆の力と視力の正しきによりて、多少完全なるものを画きいでたるはあり、されど理解の力においてはおしなべて同じからざるはなし。……噫(あい)あれは一とせの月日を積みて、僅かにラスキンが嘲語の澁味を解するに至りしのみ」と述べている。このラスキンは“Modern Painters ”にThere are no source of the emotion of beauty more than those found in things visible,と言った人である。透谷がともすれば目をつぶって情的な瞑想にふけったに対して藤村はときに目をみひらいて知的に観察する一面をもっていた。「破戒」の作者の素質はすでにして、そしておそらくは当然に、「落梅集」の詩人に萌していたといえよう。
 「旧いものを毀そうとするのは無駄な骨折だ。ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは既に毀れている」という藤村には、西欧文芸の影響を大きく受けつつ、なおおのずからなる教養のほかに、自らすすんで東洋の古典に求むるところが多かった。

 ああわれコレッヂの奇才なく
 バイロン、ハイネの熱なきも
 石をいだきて野にうたう
 芭蕉のさびをよろこばず

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 と「人を恋うる歌」(明治三四年三月「鉄幹子」所収)に高吟する与謝野鉄幹との相違が、藤村の重厚真摯の風手において、ここに示される。「ああ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき」の語には、かりに、「げに、美妙なる色彩に眩惑せられて内部の生命の捉え難きを思う時、芸術の愛慕足らざるを思う時、古人がわが詩を作るは自己を鞭うつなりといえる言の葉の甚深なるを嘆ぜずんばあらず」という「夏草の後にしるす」の一節に徴するも、むしろ「おのれが心をせめて物の実(まこと)を知」れと訓える芭蕉に通じるものが感じられよう。あるいは唐詩を学びつつ万葉をひもとき、あるいはワーズワースに心ひたしながらも香川景樹をかえりみる藤村に、折からの古典文学復興の、一種の内面的なありさまがみとめられるのである。
 「詩歌は静かなるところにて想い起したる感動なり」の語は、さらに藤村の詩観のもう一つの面をも語りうる一句である。この原語として往々引かれるのが Poetry is an emotion remembered at tranquillity.であるが、その出典と普通にいわれているワーズワースが“Lurical Ballads”再版本(一八○○年)の序に徴して、その長文の中に想のもっともこれに近いところをさがしてとり出すと、すなわち、I have said that poetry is the spontaneous overflow of powerful feelings; it takes its origin from emotion recolle-cted in tranquillity.とある。明治三五年一月、蒲原有明が処女詩集「草わかば」を世に問うや、藤村からこの後輩に送った書簡に記された Poetry is emotion remembered at tranquillity. の語は、あるいは、藤村自身によるワーズワースからの言いかえであろうか。とにかくこのしずけさにおいて思いかえされる情緒というところに、この湖畔詩人の、そしてまた多少異った意味で、この信州詩人のもつ一面が彷彿としてくる。藤村において、それは感情の知的な整理をも意味していたのである。およそ叙上のような数々のーそして結局は一つの内在的特質をもったこの詩人が、やがて自然主義とよばれる散文芸術の世界にすすんで行ったことは、むしろ当然なことであった。
 先に引き用いるところのあったペイターの“The Renaissance”に附せられた Conclusion の自註によれば、再版本においてはこの結語は省かれたという。そしてその理由として彼曰くーas I con-ceived it might possibly mislead some of those young men into whose hands it might fallーと。藤村は、けだしここにいわゆる mislead されなかった人であろうか。(一九五四・七・一)』

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