島崎藤村の「新生」解説5

島崎藤村の「新生」解説4の続きです。東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から井上豊氏による“「新生」の問題”は島崎藤村が書いた「新生」についての解説です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、掲載にあたって、全て現代語訳しております。それとこのシリーズも今回で最後になります。おつき合い下さった皆様方、お疲れ様でした。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

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『ダンテのベトリーチェにたいする関係は純愛に終始する。プラトニックな愛にはじまり、基督教流の霊的な愛に高められている。少くとも作品化された限りにおいてはそうである。岸本は勝子との恋でダンテ流の純愛を経験した。もっとも勝子には許嫁者があって、その点からいうとウェルテに似ているが、岸本はウェルテのように自殺せず、逆に相手のほうが自殺に近いような最後をとげる。
 のち妻園子を通して世俗的な肉欲生活もくまなく味いつくしたとあるが、妻の死後四人の遺子をかかえての疲労困憊のうちに危機に見舞われたのである。相手の女性は叔姪の間にある近親の若い娘であり、悲劇的な結末は見えすいていた。その点光源氏と藤壺の関係に似た点があるが、源氏の場合ははげしい思慕の情を前提として、美感が不徳をおおうといった趣をもつのにたいして、岸本はただ肉欲の過失に陥っただけである。妻が死んでから女性嫌いになり、独身生活をつづけたはてのあっけない間違であって、「彼のように女性を厭ながら、彼のように女性を求めずには居られなかったとは、」と後になって岸本自ら嘆いている。こうした矛盾が生んだいたずらであり、いたずらというにはあまりに惨ましいものであった。岸本は苦悩のあまりパリに旅立つが、帰国後またあっけなく節子とよりをもどす。表面からみれば「源氏物語」や近松西鶴等の戯作でくりかえされてきた、まことに日本的な過失である。おそろしく自然な超倫理的な世界だ。ただ相手は特殊な愛も感じていない近親であって、悲劇にもならぬようなみじめさをもつ。藤村は嵐と呼んでいるが、嵐と呼んでも美しすぎる。
 岸本がただ老獪な人間ならば、兄の言う通り事を秘密に葬ったであろう。しかし持前の愚直な誠実さからぬきさしならぬ反省に追いやられ、(自然主義思想のはたらきかけもあったが)、ついに告白にまでかりたてられる。そこには相手の不幸も己のテゴイズムもかえりみ得ないような凶暴な力の動きがみえる。「果して新生はあったであろうか」、という芥川の反問は至極当然といえよう。この点からすれば、「新生」の最後は当然悲劇的でなければならない。少くとも悲劇的な新生でなければならない。ところが二人の愛が霊的に高められることによって、すべてが救われたことになっている。岸本は後世から祝福されたアベラールとエロイーズの愛を引合いにだしたりしているが、そうした祝福は岸本と節子にたいして期すべくもなかった。まして告白によって救わるべき問題ではなかった。光源氏は秘密をおしかくしつつ煩悶をつづける。「暗夜行路」の時任謙作の出生の秘密故に暗夜行路を辿る。常識からすれば岸本の運命は当然悲劇的に終らねばならないのに、告白によって運命は逆転し、新生をむかえることになっている。芥川の反問は肺腑をついた観があるが、考えてみれば自明にすぎ、作品論としても素朴すぎる。ただ「新生」の叙述のままに藤村を買いかぶった俗見にたいする抗議として意味をもつものであり、また前記のように芸術にたいする徹底的な懐疑という特別な動機に裏づけられているのである。一面からみると、芥川(註三)の言葉も大向う相手の警句で、以来藤村の老獪が盲信され、新しい俗見をうむに至ったが、芥川は藤村の老獪を指摘したのではなく、「新生」の主人公を「老獪な偽善者」と呼んでいるにすぎない。
 岸本の過失は日本的であったが、新生へのあがきには日本ばなれのしたしつこさがみえる。自然の経路として情死にでも導かれざるを得ないような羽目に陥りながら、とにもかくにも新生に到達した。作者である藤村も危機をきりぬけて、「夜明け前」のごとき記念碑的な大作を残した。有島も芥川も純真にゴルゴンの石につまずき倒れたが、ともかくも作家として大成をとげた。藤村の不屈な努力は警句で葬り去るにはあまりにも貴重な意義をもっている。近来の「新生」論には藤村が自殺でもしなければ満足しそうもないような口吻をみせるのが多いが、有島や芥川の挫折を惜しむならば、高所から考え直す必要がありはしないか。(主人公の岸本についてならば別である。)
 亀井氏は藤村が神の一歩手前まで来ていながら、「変貌のための跳躍」を拒否しているとし、「新生」第二部の欠陥の根本原因となったと説いているのが、神をもちだしたところで欠陥は救い得なかったであろう。が懺悔や告白は元来世間や人間を相手とすべきではなく、「新生」の岸本の態度には誤算があるが、これはひっきょう藤村に自然主義的芸術観が至極となっていたからであろう。亀井氏は「新生」に悪魔の欠けていることをも指摘しているが、そうした二元性の欠如が「新生」を単調にしていることはたしかである。神や悪魔を引合いにだして主人公をからかわせ、悲劇的な結末に導いたならば、作品としてもっと面白くなったかもしれない。要するに虚構性が欠けているのである。しかし藤村としては、そうした虚構性をともなった作品ではあきたらず、どこまでも世間に向って告白しようとしている。老獪偽善とは縁遠い愚直な衝動からであって、この点が外部から単純に理解しがたいので、かえって老獪や偽善と結びついたエゴイズムのみが問題とされているようである。さらに前記のような理想主義的要素をおりこもうとしたところから、一層誤解が加わったのであろう。
 藤村の「新生」は岸本と節子が近親関係にある点を除くと、トルストイの「復活」と構想がよく似ている。(もっとも「復活」は純愛から出発する。)しかもこの特殊条件が二つの作品に根本的な相違をもたらし、「新生」はどこまでも「復活」にみられるような明るさをもつことができない。救われたように見えながら、暗い運命にからまれている。ああした特殊な事情による自伝的な作品としてはやむをえない欠陥であろう。それを避けるためには自然主義的な芸術観からの完全な離脱が必要であった。理想主義的な方向を目指しながら、自然主義的な至極にとらわれでいること、それと関連して虚構性の貧しさ、が災いをなしているのである。

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 註三。漱石の「硝子戸の中」に、「聖オーガスチンの懺悔、ルソーの懺悔、オビアムイーターの懺悔ーそしてそれをいくら辿っていても本当の事実は人間の力で叙述出来る筈がないと誰かが言った事がある。まして私の書いたものは懺悔ではない云々」とあるのをみると、芥川の新見というのではなかったのであろう。

 (附記)藤村は昭和十三年自選の定本「藤村文庫」に「新生」を収めるに当り、「寝覚」と題を改め、下巻を全部削っている。そして本来なら更に一部を書き加え三部作として完結すべきものだといったような意見を述べた。「新生」は作者自らもてあました作品らしい。』

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