島崎藤村の主要作品における解説5

島崎藤村の主要作品における解説4の続きです。1957年に河出書房新社より出版された「日本国民文学全集 第二六巻 藤村名作集」より瀬沼茂樹先生の解説を中略を多く挟んだ上で下記の『』内にて引用及び現代語訳しております。この解説は島崎藤村の主要作品を時系列に沿って解説した内容となっており、島崎藤村の興味や思考を理解する上で大きく助けとなります。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

『藤村は『春』についで『家』を書いた。『家』は『春』につぐ、藤村二七歳(明治三一年)の夏から三九歳(同四三年)の夏にいたるまでの一二年間における「島崎家」「高瀬家」(長姉の嫁した家)という「二大家族の家長達の運命」を題材にして、明治四二、三、四年にかけて書かれた一大長篇小説である。もし国民文学という観点から考えるならば、『家』は近代個人主義をを精神とする資本主義と封建的儒教主義を精神とする家族制度とが角逐する日本の国民生活の基盤である「家」を見事に包括的に描く記念すべき国民文学であったのである。明治の官僚的政治の根拠はこの近代市民社会の未成熟なままに中世的家族制度の根をおろしている国民生活にあったのだし、資本主義の急速な発展の可能性と矛盾の緩和の根拠もまたここにあったのだ。作者は、家長を中心とし、祖先崇拝と家名尊重とを第一義とし、個人の自主独立を制限する封建的家族制度を橋本家、ついで小泉家において、最初に典型的に描いている。そして、本来、夫婦を単位とする家庭に解消されなければならぬ古い秩序の束縛との喰いちがいを、若い世代の人たちの立場から批判的にみようとしている。もちろん、これを批判しりきることは許されず、そこに亀井勝一郎が末弟である小泉三吉に他の誰よりも族長のような風格が現れて面白かったと鋭く衝いたようなところが出てくる。
 もちろん、この「家」の意味は決して単純ではない。封建的な家族制度のほかに、自然的な血族関係(遺伝の問題を含む)や、「新しい家」と呼ぶ夫婦単位の家庭生活が含まれている。そして、この夫婦関係の考えかたの基礎には人間の自然性にウェイトをおいた自然主義思想が強く発現していることは当然であるが、それは「家」の閉じた社会の内部においては旧家の没落した血の頽廃が不倫の匂いを発散することを、それとして描く根拠をなしている。「座敷牢の内に悶いていた小泉忠寛」(島崎正樹)を初め、肉親兄妹の頽廃と没落とは、家の内部に、完全な封鎖性をもって、或いは明白に、或いは暗示的に描かれ、実に陰惨をきわめている。他の自然主義作家たちも、多かれ少かれ、このころいっせいに家の姿をとりあげ、また漱石の『道草』をはじめに、漱石系の長塚節、高浜虚子など農村に取材する作家たちは、誰でも家の問題に立ちむかわなければならず、そこにそれぞれちがった角度から批判がみられた。こういう一連の作品のなかにあって、藤村の『家』は、もっとも典型的に家の諸問題を剖見してみせた、画期的な国民文学であった。
 いま、ここに『家』について詳しくいうことは必要としないが、ぜひ触れておかなければならないことが二つある。一つは妻のお雪が老祖母の死去のために函館の生家に帰った留守に、三吉が手伝にきていた長兄の長女である姪のお俊から、「親戚の間に隠れた男女の関係」を暗示され、ある夜、「不思議な力は、不図姪の手を執らせた。それを彼は奈何することも出来なかった」という事件である。このお俊は『新生』の節子とは別人であり、おそらく『家』のこの部分の執筆当時はまだ新生事件は起こっていなかったのではないかと思うが、怖ろしい新生事件への陥穽がここに予表されていたということである。二つは、『家』の松尾において、甥の相場師の正太の死を思いながら、三吉は「お雪、何時だろうーそろそろ夜が明けやしないか」と問い、しかも「屋外はまだ暗かった」と結んだとき、すでにお雪である藤村の妻冬子は四女柳子の産褥熱から死んでいなかったことだ。藤村は、死んだ妻の肖像を描きながら、その死が枯れ自身の上にはねかえって闇を、考えないわけにいかなかったのである。しかも姪との不幸な事件を意味する新生事件は明治末年・大正の初めに起った。

 わたしは、藤村が自己のうちに流れている「父の道徳上の欠陥」を知り、一族の暗い本能による頽廃と破滅を確認し、意志的な努力で、用心深く、自己をまもりながら、一歩一歩自己をきずきあげ、そこに倫理的人間としての風貌をもったことをすでに説いた。それが一挙にして崩れたばかりではなく、或いは一生を葬むるかもしれぬ怖ろしい形で襲いかかってきたのである。さすがの藤村も狼狽しないわけにはいかなかったのであろう。危機の実感は、すでに『ある婦人に与うる手紙』と題して後の『生い立ちの記』(『幼き日』)を「少年の眼に映じた婦人を書こう」という意図で書きはじめたばかりでなく、また『春』の序曲といわれる『桜の実』の初稿を若い人たちのために書きはじめ、さらに『春』の少年版といってよい童話『眼鏡』をなしたーつまり自伝小説を書いて、「自分の生命の源にさかのぼ」ることをはじめている。幼い日の性のめざめや小さな盗みや怖れなど、細々としたことを書きつけながら、自分はこんな拙らぬ男だったと、自己嫌悪と愛憐とのふしぎに混淆(こんこう)した形で、自己の実体に見入っていた。『生い立ちの記』と『眼鏡』とはこの時完成して、大正二年春のフランス脱出行となる。
 フランスの旅の藤村にとっての意義の重要性は、『仏蘭西だより』『海へ』『エトランゼ』という三篇の紀行集、何よりも『新生』をとって考えてみれば明らかである。さらに、外国生活は一九世紀日本の考察を呼んで、「父とその時代」を掘りさげる歴史小説『夜明け前』、また戦時的ハンディキャップのためにとかくの難はあるが、一種の近代日本の文化史的考察を意図したともみられる絶筆『東方の門』を胚胎していったのである。このうち、『夜明け前』はぺりーの来航から主人公青山半蔵の歿(ぼっ)するまで役三十四年間の歴史ー明治の維新の過程を木曾山中の庶民の眼を通して書いた記念すべき歴史小説でもあれば、国民小説でもあった。~中略~』

島崎藤村の主要作品における解説6へ続く

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