井上靖による島崎藤村の解説3

井上靖による島崎藤村の解説2からの続きになります。中央公論社から1964年に出版された「日本の文学6 島崎藤村」から井上靖氏による島崎藤村の解説は、当時の藤村の偉業について明瞭に説明しており大変解りやすいのが特徴です。以下、『』内の文章は左記の解説からの引用となります。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

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『私は学生時代、藤村の詩を読むと言い得るような読み方で読んだことはなかった。私ばかりでなく、私と同年配の者は大体において同じではなかったかと思う。私たちの前に立ちはだかっているのは藤村ではなくて、萩原朔太郎であった。現代の若い人たちも同じではないかと思う。藤村の詩は、日本近代詩の最初のものとして、文学史上に永遠不滅の椅子を占めるものではあるが、しかし、もはやその詩からは何ものも学ばないし、学ぶべきものもない。私もかつてこうした考えを持った時期があったが、現代の若い人たちも同じように考えているのではないかと思う。
 しかし、果してそうであろうか。私はいま自分が若い時懐(いだ)いたような藤村の詩に対する不遜な考えは持つことはできない。私たちはやはり藤村の詩から大切なものを学んで来たし、そしていまも学んでいるのである。藤村の詩に西欧的な詩精神を取り入れた、藤村の詩の後継者といっても、そう間違いではないと思われる三好達治氏は、次のような文章を綴っている。
 「心の宿の宮城野よ
 『若菜集』を開いてこの一行に出会うごとに、私には一種格別な気持の動くのが常である。或は詩集を開くでもなく、ただ唇に浮んでくる時にも、やはり同じように格別な気持を覚える習慣である。(中略)私なども熱心な藤村詩の愛読者というのではないけれども、いつのほどというでもなく、藤村詩の恩沢を蒙ったことを、自分なりの分限においてたしかにあり難いことに思っている。
 恩沢などと重ったらしい言葉でいうのは気がひける。

 時は暮れゆく春よりぞ
 また短きはなかるらん

 と、ふと、前後は略として、口ずさむような時のこと、そのことを私はいうのである。
 
 なぐさめもなき心より
 流れて落つる涙かな

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 という風な一二行がおのずから唇にのぼってきて、しばらく私の気持が甘美な言葉とともに停むこと、そのことを私はいうのである」(講談社版日本現代文学全集「島崎藤村集(一)月報より」)
 三好達治氏のこの文章に、何もこれ以上つけ加えることはないと思う。私たちは藤村の詩集を繙(ひもと)くと繙かないにかかわらず、藤村の詩の大きい恩恵を蒙っているのである。私は前に挙げた河井酔茗氏の文章と共に、この三好達治氏の文章を、藤村の詩を語る珠玉の文字であると思う。「晩春の別離」にしろ、「小諸なる古城のほとり」にしろ、それが長い生命を持って、人に記憶され、口誦(くちず)さまれるということは、単なる感傷でもなければ、言葉の言い廻しの美しさのためでもない。もっと厳しく、冷たく、澄んだものが、詩の生命が、甘美な言葉の織物の中に大切にしまわれてあるからである。容易には誰にも気付かれぬ形で、大切にしまわれてあるのである。

 小諸時代

 藤村の詩業は三十四年出版の第四詩文集「落梅集」をもって終りを告げている。それ以後完全に詩筆を断っているので、詩との別れ方ははなはだいさぎよいと言わなければならない。そして三十五年に文壇的処女小説「旧主人」を「新小説」に、「藁草履」を「明星」に発表、「旧主人」の方は姦通を取り扱ったために発売禁止の厄に遇った。続いて三十六年「水彩画家」を「新小説」にというように着々小説家としての道を歩み始めている。藤村は三十二年四月に小諸義塾の教師として信州小諸町に赴任し、三十八年四月にそこを辞するまで六ヵ年を小諸に住んでいるので、この詩から小説への転換は小諸時代に為されたわけで、上記の初期の小説のことごとくが小諸の教師生活の中において書かれたものである。そして、大きい成功によって作家としての藤村の地位を確固たるものとした「破戒」もまた、それが「緑陰叢書」第一篇として自費出版されたのは小諸を引き上げた翌年の三十九年三月であるが、それが書かれたのはやはり小諸時代である。「破戒」の一応の脱稿を契機として小諸から東京へ移ったのである。したがって六年間の小諸時代が藤村七十二年の生涯において占める役割と意義はきわめて大きいものである。後年出版された「千曲川のスケッチ」の草稿もまた、小諸で書かれたもので、小諸時代は「破戒」の発表までの第一期・習作時代と見做していいであろう。
 詩から小説への転換とひと口に言うが、詩人として高名を馳せた藤村が詩を棄てて小説を志したということは、やはり容易ならぬことであり、小説以外に自分の文学者としての道はないという確固たる自覚なくしてこれを考えることはできない。しかし、そうした自覚だけで為し得ることでもない。これがみごとに為されたということは、文学者藤村の中に、詩人藤村と共に、小説家藤村が初めから並び棲(す)んでいたことを示すものであろうと思う。詩人としての資質を次第に小説の方へ向かわせたというようなものではなく、詩人として、また小説家としての二つの資質を、藤村は生まれながらにして併せ持っていたのである。』

井上靖による島崎藤村の解説4へ続く

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