水上瀧太郎が語る泉鏡花1

水上瀧太郎(みなかみたきたろう)は泉鏡花を師と仰ぎ、彼が1928年(昭和3年)に書いた「鏡花世界瞥見」は、1967年に筑摩書房から出版された「現代日本文学全集9 泉鏡花 徳冨蘆花」の一巻に掲載され、それから5年後の1972年に同社から発行された「現代日本文学大系5 樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集」に、この解説は現代仮名遣いに改められた上で、所載されています。今回は、現代仮名遣いに改められた左記の本稿を全文『』内にて引用しております。泉鏡花の研究の一助になれば幸いです。

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「現代日本文学大系5 樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集」ってどんな本?

泉鏡花は、男性なのに樋口一葉並びに他の女流文学作家とまとめてあるのを不自然に感じられた方もいらっしゃるのではないでしょうか?あるいは、筑摩書房の編集者が泉鏡花を女性だと勘違いして編集したのではないかと思うかもしれませんね。
ところが、この本ではきちんと泉鏡花の写真が掲載されているため勘違いで一緒にしたのではないことが判ります。
だったら、なぜ樋口一葉らと一緒の本にしたのか?その謎は尾崎紅葉から泉鏡花の時代まで2を一読されるとこの謎が解けます。
筑摩書房の編集者の方は、早くに亡くなった樋口一葉を生涯の仮装敵としていた泉鏡花との、夢の競演をこの本で果たしたのです。泉鏡花を深く理解することによって解ける謎、泉鏡花も樋口一葉らも当時の編集者に愛されていたことが窺える全集ですね。

鏡花世界瞥見
     水上瀧太郎

 鏡花泉鏡太郎先生は明治六年十一月四日加賀の国金沢市新町に生る。父は清次、政光と名告(なの)る金属の彫工にて、母は鈴、江戸下谷の出生、葛野流の鼓の家、中田氏の女(むすめ)、能楽師松本金太郎の小妹なり。
 十一歳の時母にわかれ、二十二歳にして父に死別す。
 明治二十三年十一月上京。二十四年十月尾崎紅葉先生の門下たることを許され、二十六年「冠弥左衛門」を今日と日出新聞に連載す。年僅に二十一。
 泉先生の文学上の活動は此の時に始まって、爾来三十有余年、今なお不断の制作を続けて居る。明治文学はじまって以来、先生の如く制作期の久しきは無く、芸術作品の質に於てすぐれたると同時に、量に於ても圧倒的に群を抜いているのは、その比を見ない所である。
 父方も母方も芸術家の血筋だった事は、先生の芸術至上主義をはぐくむ上に、決定的の運命であった。先生の芸道に対する信仰は、いにしえの名工の如く深く、今日の幾多の文学志望者が、速成出世の方便と考えて居るような不心得はもっての外の事である。
 「冠弥左衛門」は甚だ不評判だったそうだ。先生みずからその事を記していう。

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 明治二十六年五月、京都日出新聞に「冠弥左衛門」を連載す。うけざる故を以て、新聞当事者より、先生(紅葉先生)に対し、其の中止を請求して止まず、状信二十通に余る。然れども少年の弟子の出端(でばな)をおられむをあはれみて、侠気励烈、折衝を重ねて、其の「完」を得せしめらる。

 尤も此の作は、翌年転売されて北陸新報に掲げられ、大に喝采を博したという。今日これを見れば、此の時代物は作品としては極めて幼稚で、その後間もなく発表された同じく時代物「乱菊物語」「秘妾伝」などと共に、泉先生の作中最も特色の無いものである。
 作者の親しく物語るところによれば、北陸新報に連載中、毎日その社の前に佇み、掲示板に貼出される新聞紙上の自作を、心をふるわせてよんだものだそうだ。文学にこころざす者にとって、今日よりももっt、自作の印刷になる事のむずかしかった時代だから、その喜びと心配の入りまじった感情は、さこそと推察されるのである。
 此の年少の作者は、翌二十七年には、早くも「予備兵」「義血侠血」の如き、今日もなお多くの人の記憶に残る作品を発表して、非凡の才能を認められた。
 日清戦争当時は、国を挙げて外敵にあたる意気の最もあがった時代だが、文学は全く顧みられなくなった。芸術は平和の世でなければ尊重されない。国家的社会的不安の時代には、花より団子がもてはやされる。当時一流の大家も、米塩の代(しろ)に窮する事極めて甚しかったという事である。ましてや未だ大に売出したとはいえない泉先生の如きは、全く衣食の途を見出し得ず、郷里金沢の旧城址の御堀に身を投げて死のうとおもい詰めた。』

水上瀧太郎が語る泉鏡花2へ続く

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