水上瀧太郎が語る泉鏡花4

水上瀧太郎が語る泉鏡花3の続きになります。水上瀧太郎(みなかみたきたろう)は泉鏡花を師と仰ぎ、彼が1928年(昭和3年)に書いた「鏡花世界瞥見」は、1967年に筑摩書房から出版された「現代日本文学全集9 泉鏡花 徳冨蘆花」の一巻に掲載され、それから5年後の1972年に同社から発行された「現代日本文学大系5 樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集」ではこの解説は現代仮名遣いに改められた上で、所載されています。今回は、現代仮名遣いに改められた左記の本稿を全文『』内にて引用しております。泉鏡花の研究の一助になれば幸いです。

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『ところが先生は、言文一致体の文章を意の儘になし得ると同時に、更に飛躍を試みた。
 文章の音律を第一とする事である。

 僕はかの観音経を読誦するに、訓読法を用いないで、音読法を用ひる。蓋(けだ)し僕には観音経の文句ーなほ一層適切に云へば文句の調子ー其ものが難有いのであつて、その現してある文句が何事を意味しようとも、そんな事には少しも関係をもたぬのである。(略)僕は唯かの自(おのづか)ら敬虔の情を禁じ能はざるが如き、微妙なる音調を尚(たっと)しとするものである。そこで文の死活が又?々音調の巧拙に支配せらるる事の少なからざる思ふに、文章の生命はたしかに其半以上懸って音調の上にあることを信ずるのである。
 
 こういう信条から、先生は文章体と口語体との融合を試み、全く独得の文体を創設した。

 射損じたり、第一矢。
 清滝の女房、柳眉を逆立て、控への二の矢を、
 「貴方!」と取つてさし出すを、屹(きつ)と見て、打頷き、新三郎は取直して、再び丁(ちやう)と番(つが)へたのである。
 思ひ切つて一歩を進み、更に秋水の瞳を凝(こら)し、姫神の御名を胸に、鎧の袖を揺直せば、白気再び空を射て、放たずして疾(と)く貫く的、矢頃可矣(よし)、飛禽の翼縫ふ可き也。
 曳固め、きりりと締め、兵弗(ひやうふつ)と切って放す、弓は大浪を打つて返した、矢響き高く白羽の神箭(かみや)、遙に霏々(ひひ)として、風と相打つ雪一片。
 さて手応は胸にあつた。新三郎は見る見る中、割然として、心ひらけ、鏘然(そうぜん)として文字声あり、腹案成んぬ、立処(たちどころ)に。(白羽箭)

 これよりさき、泉先生は素晴しい創作力を示して幾多長短の名篇を世に問い、浪漫派の大道を打開した。当時第一流の雑誌の創刊号、正月号の巻頭には、争って先生の作品を載せ、老舗春陽堂が自慢の年頭初刷には、必ず先生の単行本を市に出した。
 森鴎外先生の小説「灰燼」の中には、慶応義塾の学生二人が、互にまだ口をきいた事は無いのだけれど、一人の読んでいる小説が、「春陽堂が出した、見覚えのある鏡花の小説」なので、他の一人がいきなり声をかけるところが書いてある。

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 (略)そしてすぐに「君は鏡花をどう思っています」と畳み掛けて問ふのである。節蔵は「君も崇拝家の一人ですね」と反問して、自分の意見は云はなかった。
 「さうです。大好きです。」相手は熱心に答へて、「露伴とはどうでせう」と、是非鏡花に対する賛否の声を聞かなくては気が済まないらしい様子で附け加へた。
 節蔵は少しもどかしいやうな感じがしたが、窮屈な着物を已むを得ず着た積りで使ふ敬語と同じ気持で、無造作に云った。「そんな比較論がどこかの新聞にあつたつけねえ。僕は鏡花も好きだが、露伴も好きだ。どつちが好いの悪いのと云ふことは出来ない。僕はそれの出来ないのが当り前では無いかと思つている。露伴は第一の詩人と云はれた時が過ぎている。鏡花は今丁度第一の詩人と云はれる時が来ているのだ。これも今に過ぎ去つてしまふのだね。見てい給へ。これからいろんな人が代る代る第一の詩人に凝せられるから。(略)」
 「そんな物ですかねえ。僕は鏡花の作に限つて面白くて溜らないものですから。」

 此の小説は明治四十五年の『三田文学』に連載されたのであるが、その中に描かれている時代は、泉先生売出しの頃に相違無いのである。
 「君も崇拝家の一人ですね」とある通り、当時泉先生の崇拝者はその数頗る多く、且その熟度は恋愛か宗教に等しいものであった。先生の門に集まる者も多く、又沢山の模倣者があらわれ、その頃の新聞雑誌の懸賞小説というと、必ず鏡花張の作品がいくつとなく集ったものだそうだ。けれども、泉先生の芸術派、とうてい他の模倣を許さない。模倣は誰を模倣しても詰らないのが当然だが、外の人の場合には、やがてその域を脱して並行して行く道が開かれるであろうけれども、泉先生の模倣者には、此の一筋の道の外に別路もうら道も無いのである。先生の門下から遂に一人の作家もあらわれなかったのは、極めて自然の事であろう。
 はなしは些かそれたが、明治三十年代のはじめに於て、泉先生は我国文壇の第一の詩人となった。しかし「灰燼」作中の人物がいう通り、此の玉座は長く一人の独占する事を許さない。明治三十六年には尾崎紅葉先生逝去せられ、その頃からさかんになった自然派の運動は、独立独行の浪漫派の詩人を迫害する事極めて手きびしくなって来た。自然派の運動は我国文学史上最も目覚しく、最も有意義のものであった。その功績の第一に数う可きは、荒唐無稽を本質とするが如く認められていた小説に、人生の真実を取入れた事にある。美辞麗句を文学の第一義と思い違えていたのに対して、客観的描写の方法を示した事にある。勿論その一面に、科学と芸術との誤れる認識と、ゆき詰った人生観から、成長飛躍の道をとざした憾(うらみ)はあるが、我国の文学が急速に著しい発達を遂げたのは、自然派の努力に負う所多大である。

 しかも、此の派の運動は、曾て無い組織だったものだった。紅葉露伴時代には、個人の偉さが一派をひきいてゆく基となったが、自然派は、主義を共にする者が、ともにせざる者に対してたたかいを宣した。文壇に於て、多数者の力の素晴しく発揮される時代が来た。ほんとか嘘かの保証の限りでは無いが、或人の話によると、来月は誰某の作品をほめたたえよという伝達が、その派の参謀本部から四方に発せられたという事である。既成作家は、自然主義的観点から、何等の価値なきものの如く批判された。曾ては一代の寵児だった紅葉先生の如きも、反動的の過酷なる批評を受けねばならなくなった。泉先生も亦同じく、黙殺か、然らざれば古いという一語を以ていい捨てられる運命を免れなかった。昨日迄の第一の詩人も、その穿物(はきもの)を揃えた若者に迄きびしい言葉を浴びせられた。斯ういう時代だから、文学青年の大半は自然派の亜流であり、既に一家を成した者も、今日の所謂転換を試みて、命脈をつなぐ事に腐心した。』

水上瀧太郎が語る泉鏡花5へ続く

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