島木健作が語る中原中也1

河出書房から1939年に発行された島木健作の「随筆と小品」の中には、中原中也に寄せた随想が掲載されており、彼の最晩年の姿が書かれております。以下、『』内の文章は左記の随想を現代語訳し引用したものとなります。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

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島木健作ってどんな人?

日本の小説家で、中野重治や徳永直らと同じく転向した作家の一人。もっとも島木自身が転向したきっかけは、作家になる前に起った1928年の三・一五事件にて検挙され、起訴されたため翌年に転向した。1934年に転向した作家の問題を取り扱った処女作を発表し世評を集め、それに続いて世に出した作品で文壇での地位を確固たるものにした。1945年に肺結核のために死去。

中原中也氏

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 病気で倒れる前、数ヶ月このかたの中原中也氏は、明るく希望に満ちていたように私にはながめられた。私と同氏との日の浅い交友は、今年のはじめ、私が鎌倉に引き移って以来のことである。私は氏の過去については殆ど知らぬのだけれども、この春以来の氏は今までにくらべて格別にわるい状態ではあるまい、むしろいい方ではないのか、とひそかに思っていた。最近の詩からもうかがわれた、子供さんを失った大きな痛手からもようやく回復し、新しい希望に向かって心を燃やしているというふうに見えた。砂金詩作は少なかったけれども、そこからわるい状態を推測しなければならぬようたものではないと思った。むしろ反対で新しい発足の前の休息のように思えたのであった。
 この秋には大体一年位滞在の予定で帰郷することになっていて、帰郷後の生活や、仕事についてもいろいろ楽しい予想を持っていたのである。夏頃から私と逢うとは、その話しがあった。
 「中学生のような気持で」と言って、若々しく前をのぞんでいる自分の気持ちを語ったこともあった。仕事の上でもようやく自信の出来て来たらしい気持ちを語って、話しが過去の追想になるようなこともあった。ここ数年来苦心して手がけて来たランボオの訳詩は本にする運びになっていたし、山羊の歌以後の詩はきれいに清書して、出版されるばかりになって、小林秀雄の手許にあづけてあったと言う。今までの自分に一応のくぎりをつけて新しく発足する、自分の内部に何かの転換の必然を感じている、ということははっきりした自覚のなかにあったことのように思う。その内部にまで深く入って話すということは私達の間にはなかったのであるが。
 そしてそういう近頃の氏であっただけに、氏の思いがけない卒然の死というものが、ひとしおいたましくてならぬのである。
 
 中原氏がはじめて私を訪ねてくれたのは、「新女苑」の辛島君と一緒の時であったと思う。
 夕方散歩から帰って見ると、玄関をすぐ上がったところの隅に、壁を背にして、坊主頭の小さな人が背をまるめてうづくまっていたが、それが中原氏だと聞いて私はやや意外であった。中原君という人にべつにどんな風貌を予想していたわけでもないが、眼の前に現われたような人であるとは思ってはいなかった。もっとハイカラであるか、あるいはも少し厳然としているか、ともかく初対面の時にはこっちにも少しは何かの構えがいるような人間であると心のどこかで思っていたのであろう。氏はややはにかんだふうで、ぎごちない、いかにも素朴なさまの挨拶をした。初対面において、人にものやわらかな、気持ちのいい印象を与える自信など全くない私も、何かとんちんかんなことを言っておじきをした。しかし初対面の挨拶を堂々とやってのけるような人間が全く苦手で、自分などとはたねがちがうと思っている私は、そういう彼にすぐに親しみを感じた。自分に共通したところのある人間に対する親しみを感じた。
 その日以後、死ぬまでの短い期間、氏は何度か私を訪ねて来た。私の方から訪ねて行くということはなかった。それは私の生活の方が氏の生活よりは規則的であることが、互いの間に認められていたからであったろう。私が初対面の時に感じたことはあたって、私と彼とは話しが合った。人間や物についての感じ方においてしばしば一致するところがあった。私は彼と政治を論議する気はいささかもなかったが、社会的事件の二三のものについてさえ、意見の一致を見ることもあったのである。』

島木健作が語る中原中也2へ続く

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