島木健作が語る中原中也2

島木健作が語る中原中也1の続きです。河出書房から1939年に発行された島木健作の「随筆と小品」の中には、中原中也に寄せた随想が掲載されており、彼の最晩年の姿が書かれております。以下、『』内の文章は左記の随想を現代語訳し引用したものとなります。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

『社会的事件といえば、この夏以来の騒然たる世上の動きについて氏の抱いていた関心の程度はかなりに深いもので、私には意外に思われることさえあった。氏のような詩人は、社会無関心派なのが普通だと頭からきめてかかっているほどに愚かでは私はなかったが、それでも時々意外に思わせられることがあった。戦争の進行についても、かなり細かに地図を見ていて、私などよりはよく知っていた。
 この頃は非常によく本が読める、とも言って喜んでいた。私の所へ来て、帰りには、二冊三冊と借りて行った。そして何日かすると、きっと几帳面に持って来て返した。愉快そうに読んだ本の感想を語ったりした。作品や人間に対する好悪の情などは、包まずにスバズバ言う方であった。私が日常接触しているような人々のことなども、遠慮なく言った。ふところへよく南京豆の袋などを入れて持って来て、ポリポリかじりながら話した。腹が少しでも空虚になると不安になる、とそんなことを言っていた。
 「これでもう二十年生きるとして……」そう言って、たのしげに将来の夢想に耽るのだった。そういう氏を見ていることは私にも愉快であった。自分の田舎の話しをして、私にもぜひ一度遊びに来いなどと言っていた。
 私のつきあった限りの氏は、おとなしい、ものしずかな、礼儀正しい人であった。相手の気持ちなどもこまかに汲んで、おもいやりが深かった。人なつこい人柄であった。氏の古い友人から、何人も持ちあつかいかねた苛烈だった一頃の氏の言行について聞かされても、信じかねるほどで、私はそういう氏をついに知らなかったのである。

 しかし時々何となくおちつきのない、不安な面持ちや素ぶりでいることもあった。私の部屋の書棚の前に坐って、「こうしていると、書物の山が崩れて頭の上におっかぶさって来そうな気がする。」と手を頭の上の方にあげて、そのしぐさをやってほんとうに不安らしくそっと後ろの方を見たりした。世にもさびしい人の姿であった。私は氏の悩んだ神経病な発作と、それに負けまいとしてたたかった少しばかりの経験について話した。私などが苦しんだものとは別個なものではあっても、私は話したかったし、氏は聞きたがった。こういう病気に苦しんだものでなければ、この気持ちはわからない。氏は自分の病気中の話しをした。「その時はほんとうに僕は何でもなかったんだ。何でもないのにむりやりに僕をそこへ押し込めたんだ。」多くの病者が言うようなことを、その時も尚氏は繰り返していた。
 夏の夜、一緒に由比ヶ浜へ行って、突然のにわか雨に見舞われて、びしょ濡れになって帰ったことなどもあった。
 
 ある日、来て、私の長い小説を読んだということで、その感想を聞かせてくれた。私は自分の仕事について氏に話したことは殆どなかった。自分の書いたものが読まれることも全然予期はしていなかった。氏はほかから借りて私の著書を読んだのだった。私は面映ゆい感じがした。
 詩人らしく感覚的な印象的な批評であったが私には面白くもありためになった。氏は、ああいうイデオロギッシュな作品は自分にはわからない、あるいは無縁であるというようなことは言わなかった。そして、自分の書くものなど、作品のそういう性質の故に、氏になど無縁であろうとひそかにきめていたようなのは、私の方なのであった。そのことに私は恥ずかしさ感じた。
 氏は、「僕の言うことは間ちがっていないつもりだが。」と、確信をもって語った。「僕はもうじきくにへ帰るんだから、感じたことを、何もかも一ぺんに言っておくのです。」とも言った。そうして私を激励してくれた。』

島木健作が語る中原中也3へ続く

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