中原中也の日記および書簡集

中原中也の日記および書簡を紹介しております。以下、『』内の文章は筑摩書房が1988年に刊行した佐々木幹郎著「中原中也」より引用したものとなります。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

 日記

『自分に、方法を与へようといふこと。これが不可(いけ)ない。どんな場合にあるとも、この魂はこの魂だ。
 (「日記」昭和二年一月十九日)』

『私の観念の中には、
 常に人称がない、
 絶対にない!
 愛が純粋であるのだ。
 (世間の中に生きるふつりあひ)
      但世間を廻避するに非ず。
 (「日記」昭和二年三月十五日)』

『ただ一度のエピキュリアンよろしくの富永が私の前に現はれた時(一九二四)、私は彼のしとやかさに、心理学圏的に魅せられた。けれどもその魅惑の中にあつても私は、富永の自ら誇つてゐる血色は椿花のそれのやうであり、それには地球最後の慈愛、かの肯定的な、或はコスミックなミスチック信念な、善良な鬱悒(うついふ)がないことを知つてゐた。そして彼が或は見下げた私の血こそ、レウマチか壊血病にかかりさうな、それでゐて明るい血のヂャンルの中で最上壇にあるものと信じてゐた。
 (「日記」昭和二年三月二十三日)』

『私は私の身の周囲(まはり)の材料だけで私の無限をみた。
 (「日記」昭和二年四月二十四日)』

『ランボオを読んでるとほんとに好い気持になれる。なんてきれいで時間の要らない陶酔が出来ることか!
 玆(ここ)には形の注意は要らぬ。
 聖い放縦といふものが可能である!
 (「日記」昭和二年八月二十二日)』

『天才とは、自分自身であつた人のことだ。つまり野望の形式から遠かつた人のことだ。而して、悪にして、野望の形式を持たぬものはない。
 (「日記」昭和九年)』

『「理性」を尊重しない限り凡ゆる「契約」は成立しまい。だから契約の必要なる度に応じては理性を尊重するほかもない。然し、私の魂が求めてゐるのは契約ではない、幸福である。好都合ではない、在るが故に在る底の喜悦である。勿論その喜悦たるや「悲しみの中の喜び」と謂はれる所の喜びであつても結構だ。
 (「日記」昭和十年九月二十八日)』

『全ての書は読まれた。それ故人生が始まらねばならぬ。けれども人生はどうしなくとも生れると同時に始まつてゐたなおだ。ー全ての書は読まれた。私は新しい役目が始まることを、(それがどんな役目であれ)、切望します、神様。
 (「日記」昭和十年十月五日)』

『天才にあつて能才にないものは信仰であらう。
 信仰といふものは、恐らく根本的には「永遠」の想見可能能力であらう。
 能才の著述とは、おつとめであり、
 天才のそれは、必至のことである。
  ところで必至のことは、忘念してゐられ易いのだ。それは恰も死があんなに恐れられてゐ乍ら、あんなに忘れられてゐられるのに似てゐるかも知れぬ。
 (「日記」昭和十年十一月二十一日)』

『『遺言的記事』ー文也も詩が好きになればいいが。二代がかりなら可なりなことが出来よう。俺の蔵書は、売らぬこと。それには、色々書込みがあるし、何かと便利だ。今から五十年あとだつて、俺の蔵書だけを十分読めば詩道修行には十分間に合ふ。迷はぬこと。仏国十九世紀後半をよく読むこと。迷ひは、俺がサンザやつたんだ。しかし、それが役立つとしても、それを読むだだけの時間をもつとノンビリ呼吸してゐたら、もつと得をしたかも知れぬのだ。中学を中位の成績で出て、あとは極くよい本だけを読むこと。但し詩集だけは、どんなつまらないものでも読む方に素質があればあまり害はなく、利得は十分にあること。尤もそれは程々にすべし。ヱ゛ルレーヌ、ワ゛ルモール、ラフォルグ、ネルワ゛ル、ドゥベル、コルビエール等は、何べんも読むべし。独、英に大したものなし。全然読まぬともよし。
 (「日記」昭和十一年七月二十四日)』

★下記の日記を紹介するにあたり、説明文が無いと意味が分らないため解説を含め日記を引用しております。

『死の前年(昭和十一年)の十一月に長男文也を亡くし、その翌月には次男愛雅が生まれる(この次男も中原の死後、昭和十三年一月に病没するのだが、)というあわただしさの中で、次第に精神錯乱に見舞われるようになった。その錯乱の徴候が見えはじめた頃、彼は「日記」の一ページに毛筆の大きな字で、「戯歌」と題して次のような言葉を書きつけた。

  降る雪は
   いつまで降るか

 これは「文也の一生」と題された長男追悼の毛筆書きの文章と、次男の誕生(昭和十一年十二月十五日)を記録したペン書きのメモの次に書かれている。おそらくこの「戯歌」をものした直後に、中原は同じ筆でこれを抹消しようとしたのだろう、大きなバツ印しがこの言葉の上に付けされている。
 「天」と「地」を結びつける「降る雪」は、中原の晩年に至るまで舞い降り続けたということになるが、~中略~そこに宿された喪失の「物語」は、歌っている本人自身を「喪失」させるまで、やむことがなかったのである。』

 手紙

『今や厭人癖に苦し。
 而も強迫観念をその元因となすものより、自分の家の庭に転がり込んだ他家の子のボールに泥をなする子供の僕の言葉であれば、通せん張り根性といふのまで進展しました。
 (正岡忠三郎宛、大正十四年四月下旬頃と推察される)』

『東京にゐては、富永を除く他、誰に会つてても自分の方の魂が唸るのばかりを聞いてるくせに、一方何かしらの自信なさにひかれて、僕は近頃毎夜々々、遠い灯火を見ながら歩き廻るのが好きだ。その時は何時も甘い思ひ出が頭の中を走つてゐる。ヒロイックな夢が胸に蠢(うごめ)いてゐる。卑屈が、獣が、出されるだけその手足を投げ出してゐる。つまり僕は、意志の、或は自制力の絶無にその時は甘んじてゐられるのだ。
 ああ、自分自身の我儘!センチメンタリズムの諸相に、浸りつつ点検する時にのみ、私の魂はその能力を発揮せんとした。
 (大正十四年十月三日付の手紙、正岡忠三郎宛)』

『君も亦優しさのために、
 性格を壊すのではないか。
 (昭和二年十月三十日付の手紙、正岡忠三郎宛)』

『家(ウチ)は隠気だ。精神の隠気なのよりは部屋の隠気な方がどれだけよいことか。ノラクラしてばかりゐるのだ。弟とは大巫戯(ふざ)けをする。これ等の者の魂は笑つてゐる。けれども此奴等が芸術家とならない所以は、愛が単独で働くことをしないからだ。みんな善良で純良でよろしい。けれども意志(リサウ)が欠けてゐる。
 (昭和三年一月十三日付の手紙、小林秀雄宛)』

『今度退院しましたら郷里に連れて帰るとかお母さんは云っていらしたさうですが、僕はそれよりもやつぱり、東京にゐたいと思ひます。東京でないまでも、かねて話してゐましたやうに、鎌倉に越さうかと思ひます。東京でないまdめお、かねて話してゐましたやうに、鎌倉に越さうかと思ひます。それならば友達も数人ゐますし、何かと僕の気持も楽だと思ひます。家は安い空き家が、いくらでもあると聞いてゐます。田舎に帰りましても、僕の仕事にはやはり不便ですから、どうしてもやはり二ヶ月に一度くらゐは東京に出て来なくてはなりますまい。勿論お母さんがどうしても連れ帰りたいのでしたら、一時帰ってもいいですが、何れまた上京しなくてはならないと思ひ乍ら帰つてゐるよりは、いつそ静かな鎌倉へ最初から越す方がよいと思ひます。
 (昭和十二年二月八日付の手紙、「千葉寺雑記」)』

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