正宗白鳥が語る夏目漱石3

正宗白鳥が語る夏目漱石2の続きです。1932年に中央公論社から出版された正宗白鳥著「文壇人物評論」の夏目漱石論を現代語訳した上、左記の本から『』内において引用しております。夏目漱石の研究の一助になれば幸いです。

『世界の文学の種類は千差万別である。批評家や読者の好みもさまざまである。私にはおのづから私の好みがあって、それはいかんとも難いのである。たとえば、明治の中期以降、特異の作風によって、一部の文学愛好者に熱愛され、目まぐるしい文芸思潮の動揺変遷の間にも、堅くおのれを持していた泉鏡花氏の作品については、私は縁なき衆生と言ってもいい。幼少の頃から、いろいろな文学に親しんで来た私も、鏡花氏などの作品を鑑賞する素質を、生まれながらに欠いているのかも知れない。
 そういうと、「自然主義を信奉している作家には、鏡花氏の芸術が分る筈がない」と、旧套的評語が、鏡花贔屓の人々から下されるであろう。しかし私は、文学に於ける自然主義の信仰者であるかないかは別問題として、かなり種類の異なった文学を観賞して来た。哀傷の文学をも詠歎の文学をも、怪奇の文学をも、艶濃な文学をも、淡彩の文学をも、みなそれ相応に愛誦して来た。私は、長い間歌舞伎芝居に惑溺したこともあった。「即興詩人」に心魂を蕩かされたこともあった。

 かつて「隅田川」を読んで恍惚としたこともあった。青年期に於てさえ、落寞たる実生活を経験していた私は、芸術の世界に於ては、人一倍現実を離れた夢をそこに見ていたかも知れなかった。父祖の遺伝や環境から言っても、芸術的才華を身心に具えていないに違いない私は、自ら豊かな夢を描く力に欠いていて、貧寒な文章をのみ書きつづけて今日に至ったのであるが、自分の描かんとして描き能わざる美しい夢を描いた文学を愛好することは、人後に落ちなかったと思っている。しかし、鏡花氏の文字や着想は、すべて私の観賞欲を跳ね返して、氏独特の世界へ私を入れさせないのである。殆ど、一章をも一節をも快くは読み得られないのである。…氏の讃美者のいろいろな評語も、私に取っては、いつも空言としか思われない。したがって、明治以来の知名な作家のおもな作品は大抵読破したつもりの私も、鏡花氏のだけは、いくばくも読んでいない。読もうとしても読めないのである。
 それでも、氏の初期のものは、昔幾篇かを通読した。そして、「照葉狂言」「湯島詣」「夜行巡査」「高野聖」「琵琶伝」など、初期の作品は、氏のその後の作品よりも、鏡花臭があくどくなくって、純真素朴で、芸術として傑れているのではあるまいかと、ひそかに思っている。

 私の学生時代には、当時の新進作家のうちで泉鏡花の名声が最も光っていた。島村抱月氏主宰の下に、我々数人の文科生によって催された合評会で、最初に選んだものは「新小説」所載の鏡花氏の「注文帳」であった。私が世間に発表した最初の文章は、この「注文帳」の批評であった。
 私はまた、その頃数人の級友とともに、鏡花氏を訪問したことがあった。島村氏も、屢々鏡花氏を推讃していた。欧州留学から帰朝した後、間もなく島村氏は、当時の文壇の不振について批評を加えているうち、「しかし、鏡花だけは、他の凡庸の徒とちがっている」と言って、文芸倶楽部所載の「霊象」と題された彼の新作を称讃した。
 年少の頃には、人はたやすく周囲にかぶれるものである。自然主義流行の時代にでも、マルクス主義流行の時代にでも、周囲が騒がしく囃し立てていると、年少の徒は、それ以外に真理はないと思って雷同するのである。確信をもって異を樹つることは難い。私も、鏡花讃美の声を、左の耳からも右の耳からも聞かされていると、訳も分らずに、正体も分らずに、鏡花のえらさに感歎しなければならない気持になることもあった。多数の拝む偶像をば、われも拝みたくなるのが、人間通有の面白い心理らしい。鏡花漱石など二三の文人について、私自身の経験した些細なことも萬般の世相に広く押及ぼして見ると面白いのである。
 
 私は、今、新潮社出版の「現代小説全集」中の泉鏡花集を取り出して、久し振りに鏡花氏の作品に目を触れた。しかし、相変わらず読むに堪えぬのである。何となく名文らしい感じがするだけで、私の心に響くところは少しもないのだ。巻頭の「玄武朱雀」は、ひどくイナセナ景気のいい書きっ振りだが、この鏡花式とも言っていい調子づいた文章が、私には快く受け取れない。有り振れた平坦な写実的描写を試みないのが、この作者の特色であるが、異常な特色を有った文学は、それを受け入れるに足る素質を備えた少数の読者にのみ観賞されるのであろう。「玄武朱雀」を努力して読み通した。私はこの調子づいた文章に於て、作者がうしろ鉢巻きでステテコを踊りつづけているのを見るような感じがした。』

正宗白鳥が語る夏目漱石4へ続く

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