正宗白鳥が語る夏目漱石5

正宗白鳥が語る夏目漱石4の続きです。1932年に中央公論社から出版された正宗白鳥著「文壇人物評論」の夏目漱石論を現代語訳した上、左記の本から『』内において引用しております。夏目漱石の研究の一助になれば幸いです。

『私は「猫」のまだ世に現われない以前、漱石がまだ無名作家であった時分、彼に関する短評を、読売新聞に掲げたことがあった。それは「源兵衛村から誰とかが大根を持って来た」というような瓢軽(ひょうきん)な俳體詩を、「ホトトギス」誌上で読んで感心したためであった。
 当時、私は新聞記事の材料を得るために、近所の畔柳芥舟(くろやなぎかいしゅう)氏をおりおり訪問していたので、ある日、氏に向かって俳體詩の話しをすると、氏は、それに連関して、漱石の人となりを、いろいろ私に話して聞かせた。彼が読書家であること、世間的名誉の外に超然としていることなどを話して、畔柳氏自身、彼に敬服しているらしい口吻(こうふん)であった。「高濱君と俳體詩なんかをやっていい気になってる」と言っていた。これによって見ても、漱石は、無論、他の多くの文学者の如く文筆を以て世に立とうとする考えはなかったのだと察せられる。鴎外や上田柳村とも異なっていた。私が読売新聞で、漱石を讃美し、柳村を貶した筆法を弄すると、柳村は「積極的に何かやろうとするものを非難して、消極的な生活に甘んじているものを褒めるのはいいことであろうか」という意味のことを、私に言った。しかし、間もなく、漱石は急転直下の勢いで世上に活躍しだした。
 
 当時の読売新聞の主筆であった竹越三叉氏は、漱石招聘を企てて、時分で交渉に出掛けたようであったが、私も一度主筆の命を奉じて駒込の邸宅に漱石を訪問した。新聞記者として訪問ずれのしていた当時の私は、学生時代に鏡花訪問を試みた時のような純な気持ちは失っていて、「お役目に訪ねて来た」という感じを露骨に現わしたらしかった。部屋の様子も、主人の態度も話し振りも、陰鬱で冴えなかった。「草枕」を発表して名声嘖々(めいせいさくさく)たる時であったのに関わらず、得意の色は見えなかった。「竹越さんが先日訪ねて来たが、僕を先生と言っていた。しかし、竹越さんの方が僕よりも年上じゃないだろうか」「小説を書きだしてから、丸善の借金は済した」と、興もなげに言ったことだけは、今もなお覚えている。その時坂元雪鳥(さかもとせっちょう)君が来ていたが、この人の話の方が元気がよくって座が白けないで済んだ。読売入社の件は無論駄目であったが、間もなく仁位町の文学附録へ、一篇の評論を寄稿されたのが、漱石が読売に対する寸志と見るべきであった。
 例の畔柳氏にこの話しをすると、「漱石が新聞社なんかへ入るものか」と、頼みに行く方が馬鹿だと言わぬばかりに言って、笑った。私は成程と同感した。
 ところが、それから、半年も経たぬ間に、夏目漱石先生は、堂々と朝日新聞社に入社した。私は意外に感じた。人は、処世上の利害の打算によってどうにでも動くものである。あの人に限ってそんなことはないと断言するのは浅墓な考えである。漱石先生と雖も例外である筈がない。竹越氏は私に向かって、「漱石は、読売入社については不安を感じていたらしいが、社では約束は確実に守る。本野一郎君に僕からそう言って、将来の地位の安全は保証する」と言ったが、そういう言葉をそのままに受け入れるべく漱石は、あまりに聡明であった。読売では前途に不安を感じて、乗り気にならなかった彼が、朝日ならと乗り出したところに、彼の人生観察の目の動きが見られる。

 島村抱月は、その頭脳の聡明さに於ては漱石に劣らなかったが、晩年一婦人の愛に惑溺して常道を逸した生活を過ごした人ほどあって、あまく調子に乗って利害を見る目のくらむことがあったらしかった。衆人の期待を荷って欧州留学から帰朝した時、読売では、かねて関係もあることだから、彼の助力を待設けていたのであったが、彼は容易に日々新聞の招きに応じた。当時は文芸には縁のなかったその新聞を舞台として、自己の努力を扶植しようとした。おれが出れば不適当な舞台でも生かして見せると気を負っていたのであった。ところが、満一年を過ぎると無雑作に社の方から断られてしまった。その頃私は井原靑々園(いはらせいせいえん)氏に聞いた。氏は抱月に忠告して「君は日々のような場所違いの新聞に書くよりもやはり読売に書いた方がいいじゃないか」と言ったが、彼は自信があるらしく、忠告に耳を傾けなかったそうであった。
 抱月よりも漱石の方が、自己と周囲との観察に於て用意周到であった訳だ。』

口吻(こうふん)・・・口ぶりまたは言い方。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です