正宗白鳥が語る夏目漱石7

正宗白鳥が語る夏目漱石6の続きです。1932年に中央公論社から出版された正宗白鳥著「文壇人物評論」の夏目漱石論を現代語訳した上、左記の本から『』内において引用しております。夏目漱石の研究の一助になれば幸いです。

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『「普通の不満足は必ず一方に満足を控えている。もしくは夢見ている。スイフトの不満足には此対立がない。…過去現在未来を通じて、古今東西を尽くして、苟(いや)しくも人間たる以上は、悉く嫌悪すべき動物であると言う不満足である。従って希望がない。救われ様がない。免れ様がない。彼の風刺は噴火口から迸る氷の様なものである。非常に猛烈であるけれども、非常に冷たい。人を動かすための不平でもなければ、自ら免れるための不平でもない。どうしたって世界のあらん限りつづく、不平の為の不平だから、スイフト自身は嘗て激していない。冷然平然としている。何だかスイフトなるものが重たい石のように英国の真ん中に転がっているような気がする。そうして此の石が一つある為に、左右前後は無論、全世界に蠢動する人間と名のつくものが、悉く石に変化した様に思われる。なぜと言うと、彼は如何に増悪の意を洩しても決して赤くならない。又決して慇懃にも出ない。同情は固いよりない。…」
 漱石の見たスイフトは、通俗の文学史の見たような浅薄皮相な風刺家ではないのである。古今東西の文学史に散在している風刺家や厭世家は、大抵は一方で甘い夢を見ているので、彼と心を同じくして見ていると、世界の殆ど凡ての文学者が甘ちゃんなのである。馬琴の「夢想兵衛」などは「ガリバア旅日記」に比べると、お話しにならないほど卑俗であり膚浅(ふせん)である。そして、漱石の所論を熟読していると、彼はスイフトを客観的に研究し解剖しているだけではなくって、スイフトの見解にかなり同感し共鳴しているのではないかと疑われる。そうでなければ、ああまで深くスイフトの心境に立ち入った傑れた批評が出来る訳はないと私には思われる。
 しかし、一部分だけでもスイフトと心を同じくしている漱石が、時分の創作に於ては、なぜ「坊っちゃん」の如き、通俗的小説を書くのであろうか。留学中にも帰朝後にも満腔(まんくう)の不平を抱いていた筈の彼の鬱憤はこんな小説で洩される程度であったのか。…私は、漱石の創作に現われてる彼の心理について、少なからぬ興味を覚えだした。鴎外は聡明至極で筆致も明快であったが、心の働きが単純であった。漱石は複雑である。
 彼は、生真面目に堂々とスイフトを論じているうちにも、時々はおひやらかしを言ったり、忘れていたものをふと思い出したような態度で卑近な道徳に拘泥した口吻(こうふん)を洩している。ここらが、譲歩のない冷静なスイフトとは違った漱石の真面目なのであろうか。彼は「ドンキホテ」についても、「多数の評家は風刺と見るようだが、私には花見の鬘同様な感がある」と、おひやらかしている。

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 私は、「それから」を改めて読んだ。
 この長篇は二年ほど前に、帰省の途上、汽車のなかで通読して、直ちに簡単なる読後感を「読売」に寄稿したのであるが、作品から受けた印象は間もなく私の頭から消失していた。それほど感銘の薄い作品であった。
 しかし、この小説は、漱石の作中でも殊に深刻味のあるものとして、知識階級の読者に推讃されていると聞いたので、今度改めて読み直したのである。
 
 「虞美人草」を読んだあとで、「それから」を読むと、この作者の小説構成術の進歩が見られる。
 前作では、小説らしいところはぽっちりしかなくって、随筆風の低徊趣味が果てしなく跋扈していたのであったが、後作では、全篇の初中後がもっと有機的に構成されていた。作中人物のそれぞれがもっと現実の姿を備えている。しかし、私には、最初読んだ時にまさった興味は感じられなかった。
 「虞美人草」でも、「彼岸過迄」でも、「心」でも、あるいは「明暗」でも、漱石の長篇小説の作風は、後に何か奇抜なことが出て来そうに読者に期待させながら、くどく長く読者を引きづって行くので、読者には辛抱が入る。凡庸な作者は読者を釣って行くだけで、最後に玉手箱から取り出された手品の種は案外詰まらないことが多いのだが、漱石の玉手箱には、いつも相応に見事なものが潜められている。「それから」にも。主人公代助が友人の妻三千代に対する心理の交錯に、読者の心を充分に捉える力を有っているのである。彼の胸に潜んでいた秘密を、女の夫や、父や兄嫁や読者の前にさらけ出した時には、彼の人生は混乱し、「世の中は真赤」になる訳である。…ところが作者が筆を尽くしているにかかわらず、事相が私には空々しく思われて、胸を抉られるような感じがしないのだ。私ばかりがそうなのであろうか。』

正宗白鳥が語る夏目漱石8へ続く

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