正宗白鳥が語る夏目漱石8

正宗白鳥が語る夏目漱石7の続きです。1932年に中央公論社から出版された正宗白鳥著「文壇人物評論」の夏目漱石論を現代語訳した上、左記の本から『』内において引用しております。夏目漱石の研究の一助になれば幸いです。

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『「代助は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来る男女の情話があまりにも露骨で、あまりに放肆(ほうし)で、且つあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪しんでいた。原語で読めば兎に角、日本には訳し得ぬ趣味のものと考えていた。従って彼は時分と三千代との関係を発展させるために、舶来の台詞を用いる意志は毫(ごう)もなかった」と言っているが、漱石は男女関係を描くにあたって、つねにこの心構えを棄てなかった。人倫五常の道義を表に振翳(ふりかざ)しながら、傍ら、忌憚なく淫蕩の情景を描写していた馬琴と違って、漱石はあくまで品位を保っていた。それは彼の創作の風格として尊重していいことなので、私は、漱石がモウパッサンなどの作風を真似なかったのを遺憾に思っていないのではないが、「それから」の代助が、そんなに熱烈に三千代を恋しているようには思われないのである。代助の心は躍っていない。血は湧いていない。作者の頭は自在に働いて、恋愛心理の経過に於ても、へまなことは書いていないのだが、どこまで行っても理詰めな感じがする。へまなところがなさ過ぎるので窮屈である。新聞小説執筆前の初期の作品、「猫」の如き、「草枕」の如き、「坊っちゃん」の如き、みんな、のびのびとしてゆったりしていたが、「それから」やその他の長篇小説は、くどく詳しく書かれているに関わらず窮屈である。
 「代助は泣いて人を動かそうとするほど、定休趣味のものはないと自信している。凡そ何が気障(きざ)だって、思わせ振りの、涙や煩悶や、真面目や、熱烈ほど気障なものはないと自覚している」と言っているが、彼の創作の用意にはこの気持ちが厳守されている。普通の小説の書き振りに対する彼の反抗心もここに微見している。
 彼漱石も、ある意味で代助の如く、ニルアドミラリの域に達していたのであろう。…私はこう思う。彼は、学究的職業から離れて、小説によって生活の料を得ることになって以来、当面の必要上、世界と人間の真相を考察し瞑想して、それを机上に持って来たのであろうが、考察冥想の結果として得た人と人との間の愛欲や闘争を、彼は、つまりは、ニルアドミラリの目で見ていたのではあるまいか。彼と同時代に自然主義作家として区別された花袋独歩藤村などは、案外傍観的や客観的の作家ではなくて、漱石の見方から判断すると、思わせ振りの涙や、煩悶や、真面目や熱烈を作品に傾注した、気障な作家であったのかも知れなかった。彼がツルゲネーフ全集を読んでいるという噂を昔聞いたことがあったが、彼はツルゲネーフに於いても、思わせ振りの気障な作家を見たかも知れなかった。

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 ニルアドミラリの極は、文学としてはスイフトの域に達しなければならぬ。彼は一面そういう素質を有っていたらしいのだが、それを、徹底させなかった。…思わせ振りのもの気障なものを、思わせ振りのもの気障なものとして、スイフト式に冷静にあるいは冷酷に、人間という生物の愚かしき行作として描写しないで、尤もらしく重みをつけて書いたのは、彼の職業意識と伝統的道徳癖とに由るのであろう。彼は腹の底では、雑多紛々(ざったふんぷん)の色恋沙汰などに、尊い人生の意義を見たりしてなんかいなかったのであろうか。
 深い人間心理を微細に取り扱ったいくつかの彼の小説を読むと、よく知っているのに感心されるが、いつも実感が欠けていて、生な人間らしいところが欠けているので、強く胸を打たれることがない。
 何と言っても、彼の長篇小説のうちで生気に富んでいるのは「道草」である。「それから」なども、漱石の他の多くの小説の如く、しきりに道草を喰っている小説で、その道草が例の如く、アンドレーフの「七刑人」の説明だったり、ダヌンチオの部屋の色の説明だったり、文学論だったり、社会観だったりして、ややもすると、小説の中へ雑録がまぎれ込んだのじゃないかと思われるのだが、「道草」は、題は明らさまに道草を標榜していながら、無いような首尾を通じて、生々した人生記録なのである。』

放肆(ほうし)・・・勝手きままで節度がない様子。
毫(ごう)もない・・・毫は細い毛、わずかなこと。この場合、少しもという意味で使われている。

正宗白鳥が語る夏目漱石9へ続く

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