正宗白鳥が語る志賀直哉と葛西善藏4

正宗白鳥が語る志賀直哉と葛西善藏3の続きです。1932年に中央公論社から出版された正宗白鳥著「文壇人物評論」の志賀直哉と葛西善藏を現代語訳した上、左記の本から『』内において引用しております。二人の研究の一助になれば幸いです。

『私は、はじめにこの作者には「温室育ちのお坊ちゃん」風のところがあると言った。しかし、武者小路氏とは、「お坊ちゃん」ぶりが違う。武者氏は、正統的お坊ちゃんで、お目出たいところがあるとともに、天空海濶(てんくうかいかつ)のところがあり、物には拘らないのびのびしたところもあるが、志賀氏は、その作物によって判断すると、なかなかに神経質で気難しくて細かいところによく気がつくのである。家庭の事情によるのであろうが、生存に対する不満の影も、彼の心に差している。これで、生活難があったら、葛西氏よりもこの方が陰気な厭世家になっていたであろうと想像される。
 「和解」は、当時この小説を微細に批評して激賞した小宮豊隆氏を泣かせたものらしい。頑なな父子の反目も解けて、父も子も目を濡らし、継母も泣き叔父も泣き、妻も泣き妹も泣くという一篇の結末は、多くの読者をも泣かせたらしい。ところが、私は、ここの場面は、通俗小説の泣かせ場のような感じがした。志賀氏のような作家にあるまじきところだと思った。「老人」を書いたような態度で、なぜここを冷静に書き得なかったかと思う。作者は、自分の事であるためか、自分に甘えて書いているのである。私は「和解」を通読して、根底の浅い葛藤につつかれて来た揚句の果てに、涙攻めになるので愛想を尽かした。この場面と、「濁った頭」とは、私の読んだ範囲に於いては、志賀氏の悪作であると思う。私は、小説を書きはじめの頃、藤村花袋の両先輩が、ある所で執筆難を語り合っているのを傍聴したことがあったが、花袋氏は他人の事を書く困難を言い、藤村氏は、自分の事を書く方が一層困難ではないかと言っていた。要するに、どちらも、よく書きこなすことは難しいのであるが、龍之介直哉などの作品では、自己の直接実験を直写したものよりも、題材を離れた所から取ったものに於いて一層よく芸術的効果を現わしている。芥川氏は、死の少し前くらいまでは、自己の露出を嫌っていたらしい。志賀氏は「自分の仕事の上で父に私怨を晴らすようなことはしたくないと考えていた。それは父にも気の毒だし、尚それ以上に自分の仕事がそれで穢されるのが恐ろしかった」と言っているような遠慮をもっていた。
 しかし、「和解」には私の心の押えられたところがった。ことに赤児の病気と死亡のあたりは真に迫っていて、しかも主人公の心は混乱していながら、描写は客観性を持して乱れていない。私はここを読んでから間もなく葛西氏の「不良児」を読んで、子供のために苦労する親心を想像した。私には体験のないことであるが、葛西と志賀のような、他の題材は稍々もすると遊び気分を作中に現わしている人達の芸術にも、子供の生死の聞き、運命の岐路に立つと、極度の緊張を示しているのに感動した。

 
 文壇に割拠しているいろいろな団体のうちで「白樺」派と言われている仲間は、私に取っては最も縁の遠いもののようにかねて思われていた。志賀直哉氏の如きは顔も見たことがない。葛西善藏氏は早稲田に学んだ縁故で、文壇で「早稲田派」と言われる系統に属する作家であったが、私はこの人とも殆ど面識がなかった。ただ一度、徳田秋声夫人の葬式の時に、寺院の庭で会っただけである。で、私は、個人的に葛西氏をよく知らなかったのみならず、氏の作品にもあまり親しんでいなかった。
 「子をつれて」という短篇を「早稲田文学」で読んだ時、この作者の名をはじめて知った。そして、貧窮の生活を叙しているうちに飄逸なところのあるこの小説を面白いと思った。それから、「贋物さげて」という小説を、やはり「早稲田文学」で読んで、よくある材料だが、こういう題材を取った小説では、近松秋江氏の「伊年の屏風」の方が面白いと思った。その後、二三葛西氏のものを読んだ筈だが、私には興味がなかった。
 ある時、文学志望の青年が来訪した時の話しに、彼は葛西氏の作品に最も敬服していると言って、「あの人はどうして自殺しないのでしょうか」と言った。突き詰めた生活をしているこの作者に取っては、自殺が当然の運命であると、この青年は思っているらしかった。またそういう運命にある人間を、凡人とちがったえらい人間であるように思っているらしかった。私はこういう見解には同感しなかったが、葛西氏に心酔する青年もあるのかと、むしろ不思議に思っていた。』

天空海濶(てんくうかいかつ)・・・人の度量が空の様にカラリとして、海のように大きいこと。

正宗白鳥が語る志賀直哉と葛西善藏5へ続く

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