正宗白鳥が語る志賀直哉と葛西善藏5

正宗白鳥が語る志賀直哉と葛西善藏4の続きです。1932年に中央公論社から出版された正宗白鳥著「文壇人物評論」の志賀直哉と葛西善藏を現代語訳した上、左記の本から『』内において引用しております。二人の研究の一助になれば幸いです。

『今、「葛西善藏全集」を披(ひら)いて、幾つかの短篇を続けて読んで、私はウンザリした。「暗鬱、孤独、貧乏」の生活記録の繰り返しであって、それが外形的にも思想的にも単調を極めてある。「私の一番悲しく思うことは、貧乏であること、そしてその貧乏に打克ってグングン金持ちになって行けるほどの豊富な創作力を恵まれていあないと言うことである」と、自分で反省しているが、その通りであって、氏の創作力の貧しさに、私は驚いた。兎に角四十四歳までの生涯を文学に託して、呻吟苦悩、こういう作品をこれだけしか書き上げられなかったのは悲惨に感ぜられる。これだけのものも、貧乏の鞭が彼を追い立てればこそ書けたのである。改造社などの雑誌社が彼をせき立てて書かせたればこそ、幾つかの身辺小説も辛うじて出来たのらしい。世が彼の天才を虐遇したのではなくって、貧苦の運命は彼の身に備わっていたのであった。
 しかし、それに関わらず「葛西全集」は、現代の日本の文壇に存在を値する資格は有っているのである。才気に乏しいかわりに彼は自己の芸術に誠実であった。当て気や通俗味は薬にしたくもなかった。世俗に所謂成功の資格たる「運、純、根」のうち、彼は「純」は充分に持っていたが、「運」と「根」がなかった。しかし、飲んだくれに有勝ちの、飄逸さ、多少身に帯びていた仙骨が、彼の暗鬱鈍昧な作品に、芸術の光を差させているのである。
 「私は、妻子を棄てて、あの鬼のような継母の迫害に堪えかねて、郷里を飛び出して来た。それ以来、私はすべての女性と言うものに対して脅迫と敵意を感じている。どんな女に対しても、私は私の継母と言うものを通さずには、考えることが出来ないのだ。私は自分の妻や娘たちのことすら、信じたく思わない。すべての女性の蔭には、私の継母の邪鬼のような影がひそんでいる」(暗い部屋にて)と、彼は言っているが、しかし、その作品には、そういう態度を持った観察に基づく女性は、一人も半分も現われていないようである。「彼等はすべて邪悪で、毒婦で、涙にも媚びにも、すべて死の毒を含んでいるのだ」と、どうしたはずみか、興奮して毒吐いているに関わらず、そんな女性を一度も具体的に書いていない。そんな女性もこんな女性も、女というものを小説のなかに丸で書いていないのは珍しい。主人公の妻とかおせいとか、温泉場の芸者とかで、作中には出てはいるのだが、女の名前でそこへ坐っているに留まって、外形に於いて女の容姿を具えてそこに現われているのでもなければ、一人の女としての心理の動揺がそこに見られるのでもない。
 「急行券」のなかに、主人公の妻が、ちょっと見つかりにくいところへ、夫の小使銭を入れて夫に渡している女らしい心遣いを、私はこの作者の作中では珍しいと、思うくらいである。あれほど主人公と関係が深く、あちらこちらの作中に現われているおせいだって、少しもいきいきして描かれていない。この女の心理なんかを、作者は歪みなりにも観察していない。「いつも相手を疑わない」薄ぼんやりの女として、作者は見ていたのかも知れないが、そういう平凡な女としても明晰に描かれていない。
 

 やくざな書画を売って大金をせしめようとした「贋物」と同じ心理を取り扱っている。「馬糞石」は、葛西氏の傑作で、田舎者の無知な欲心が、無器用なうちにも一種の味わいのある筆でうつされている。村のスケッチである「仲裁人」もいい。しかし遺憾にもこういう田舎の世相を写した小説も、そう多くはないのだ。一人の異性をも描き得なかった彼は、自己を離れた世能人情をも描き得なかった。彼は、ただ狭小な範囲でころがっていたのだ。
 私は、私の読んだ彼の数十篇の短篇のうちで「仲間」というのが、最も彼の面目を知るに都合のいい代表作であると思っている。これは割合に自由に書けている。世才にも文才にも貧しい、しかも、肉体に病気をも有っている彼が、差し迫った金の工面をしに上京して、運のいい友人達が面白そうな生活をしているのを見て、心を暗くすること、友人達に揶揄されること、金策は不成功に終わって病気の悪くなること。…みじめなことの連続なのだが、そこに、独特の諧謔味がにじみ出ているので、自ら一つの芸術境をつくっている。
 「狸」という綽名(あだな)を仲間からつけられたことを気にして、「哀しき狸…」と、泣きたいような自嘲の気持ちでつぶやき、「若い彼等の眼には、自分のような人間は、余程珍惰に見えるに違いない。老いぼれの道化者としか彼等には見えないのだろう。ほんとに泣いている自分の心持ちは、全盛揃いの彼等に理解されよう筈がない」と歎じている。』

正宗白鳥が語る志賀直哉と葛西善藏6へ続く

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