里見弴が語る有島武郎2

里見弴が語る有島武郎1の続きになります。1967年に中央公論社から出版された「日本の文学27 有島武郎 長与善郎」の付録に収載されている里見弴と本多秋五との対談から、有島武郎についての部分を左記の本から『』内において引用しております。里見弴と有島武郎の研究の一助になれば幸いです。

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濃情の人、武郎

 本多 若いころに、武郎さんがお書きになったものを読むと、弟の生馬さんのことを、彼は天才だと言っていらっしゃる文章があります。もちろん、志賀さんの日記なんかを見ても、生馬さんが非常に優秀な青年であったことは想像できるんですが、自分の弟に対して、そのように書けるということは、虚心というか、ほれっぽい人というか、人の長所をよく認めるタチの人であったのではないか、そんな感じがするのですが、どうでしょうか。
 里見 確かにその通りだけれども、僕が生意気になって、多少とも自分の考えを持つようになってからの感想が一つあるのです。それは、有島家の血統には、親父をはじめとかく最大級の表現を使いたがる性癖があるように思われることです。ちょっとうまけりゃ、こんなうまいものはないぞとか、あそこへ行ってごらん、あんないい景色はないぞ、といったふうな言い方をするんだな。最大級でなければ承知できない癖ですね。それが伝染したのか、われわれ子供たちもとかくそういう言葉使いをする者が多い。一人前になってからの僕はそのことに反撥を感じて、少々おいしくても、そうでない顔をして、逆に行きたいような気持を持った時分もあるのですがね。あなたのおっしゃる武郎のほれっぽさのなかには、多少そういう有島家伝承の口癖も含まれていたかも知れませんね。いきなり話を最大級へもっていってしまうという……。
 本多 時代も違うし、わからないところもありますが、伝え話などで聞くと、武郎さんは非常に素直な人で、その素直なところへ、激烈なキリスト教が入ってきたために、抜け道のないキリスト教を信じてしまったのではないかという気がするのです。~中略~里見さん流に言えば、有島家の薄情ではない。多情、多情でなkれば濃情といったものがあって、上辺はおとなしそうだけれども、中の方では何かが煮えたぎっていたという感じがするのです。とにかく、里見さんもだんだん独自の道をお歩きになったので、ある方面については、歯がゆい兄貴だ、とお思いになったところもあるのではないでしょうか。~中略~
 里見 キリスト教に関しては、家庭内に相当なトラブルがあったらしいです。僕はその時分のことはよくわかりませんけど、母親が熱心な仏教信者だったものだから、キリスト教には頭からの反感で臨むでしょう。われわれ時代の子供たちには、「耶蘇、味噌、鉄火味噌」なんて囃(はや)し言葉があったくらいでね。
 本多 とても肌合いの違うものだったわけですね。
 里見 だから、母親がそれは困ると言ったらしいですよ。親父は仏教信者ではなかったけど、やっぱり異国の宗教にはちょっと抵抗を感じていたのではないかと思うんだ。
 本多 昭和初年のマルクス主義ですか。
 里見 親孝行で、めったに両親の言葉にそむくなんてことはしない人なんだけれども、内部は、さっきあなたがおっしゃったような、煮えたぎるものをもっていたから、その件に関するかぎり断じて従わなかったらしい。時分の道を突き進めて、家庭内が少しくらいごたついても、それはいたしかたないという態度をとっていたらしい。ことにその時分は北海道にいて、毎日顔を合わせるわけではないから、手紙でやりとりするとか、休みで帰って来た時に話し合うというぐらいで、それほど表面化しなかったけど、互いにちょっと反撥し合っていたらしいな。

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 「或る女」をめぐって

 里見 それから、さっきおしゃった、兄貴には少し歯がゆいところがあったのではないかということですが、どこまで行っても十歳違いの僕ですから、よくわからなかったんです。しかし、武郎のすぐ下の、山本という家に嫁にいった姉の愛子が大変な崇拝なんでして。
 本多 お兄さんをですね。
 里見 ええ、兄貴の方でもかわいがっていたようですが、そりゃもう大変な傾倒なんです。その姉などは、「或る女のグリンプス」が「白樺」に発表されたのを読んで、びっくりしてしまいましてね。兄貴のことを男女関係などはきれいごとで何も知らない人のように思っていたわけですから、僕をつかまえて、「お兄さんて、なかなか隅におけないのねえ」と、こう感歎の声を放ったものです。「隅におけない」がいいやね。時分はとうに嫁に行っちゃっているから、その点では一日の長(ちょう)きどりだ。(笑)』

里見弴が語る有島武郎3へ続く

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