里見弴が語る有島武郎3

里見弴が語る有島武郎2の続きになります。1967年に中央公論社から出版された「日本の文学27 有島武郎 長与善郎」の付録に収載されている里見弴と本多秋五との対談から、有島武郎についての部分を左記の本から『』内において引用しております。このコラムも今回が最後になります。おつき合い下さった皆様方、ありがとうございました。里見弴と有島武郎の研究の一助になれば幸いです。

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本多 それが有島家の美風良俗を語るわけですね。里見さんの時分になると、実に乱脈をきわめましたね。(笑)
 里見 生馬のころまでは、そんなに親に心配をかけたことはなさそうですが、僕のところへきて、家庭を崩壊させたといってもいいくらい……。(笑)
 本多 里見さんは随分悪かったですね。(笑)今度「或る女」を読み直して、私はあれを極力、私小説的に考えてみたわけです。証拠は不十分でしたけれども。~中略~作品のなかに出て来る光景を、武郎さんは実際に見たのではないか。もうちょっと想像をたくましくすると、アメリカへ行って、そのまま帰って来て、作品の透矢町の双鶴館にあたる場所へ電話で呼びつけれられて、信子から嘘と真をつき混ぜたような話を聞かされた。そんなことも、ほんとうにあったのではないか。そのほか、いろいろ想像できるのですが、この想像は駄目ですか。
 里見 始めはもう少し自分に近く、つまりいくらか自叙伝風に書いていくつもりだったのではないでしょうかね。それが筋の発展上、だんだんフィクション的要素がましてきて、いくぶん前の部分との釣合いが悪いくらいになったのではないかと、僕はそう思うんですが……。
 本多 そうですね。やっぱり、後篇を書くときに、本当の詩的世界を、実生活から離れた世界を造る力ができてきた。それで、全篇の方を照らし返して訂正したけれども、ちょっと直しきれないところがあったように思いますね。あの小説が「白樺」に「或る女のグリンプス」として載ったときは、同人の間での評判というものはどんなものだったのでしょうか。当時、長与さんは読んでいなかったらしい。武者小路さんは読んでみえるようですが。
 里見 そうですね……。僕の耳にはあんまり批判めいた言葉は伝わって来なかったと思うけど……。
 本多 ちょっと派が違うし、年齢も違うし、東京在住の同人でもなかったから……。

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 里見 年齢の隔たりや東京にいなかったこともあったでしょうね。だけど、何しろ、処女作らしい素人ッぽさは、ことに前篇には見られますね。そのころ「白樺」では専用の原稿用紙をたくさんこしらえたのです。それを使えば、何ページになるってことがすぐわかるように、行数や字詰めを本誌一ページの組面(くみづら)どおりにしてあるのです。
 本多 便利なものを作りましたね。
 里見 となると、マス目の一画に書き込む文字は、蝿の頭ほどの小ささです。編集部には便利でも、誰だってこりゃ書きづらい。ところが兄貴ばかりは従順にその原稿紙を使っていたんです。僕はそれに書かれた「或る女」の原稿を見た覚えがあるんですが、丹念に一画に一字ずつはめ込んでありました。
 本多 原稿はおそらく楷書に近い字体で、消しのない、きれいなものだったでしょうね。
 里見 どうも実に根気のいい人だと思ったな。(頭上の額を見上げながら)こんなものを書けるんだからね。
 本多 これは写経ですか。
 里見 そうですね。この日付けを見ると、大正九年の正月四日になっているのですがね。正月二日には、親父が必ず書初めをやって、子供たちにも勧めてやらせていたんです。親父が死んだあとも、兄貴は親父のした通り書き初めの風習を続けていましたよ。これも、いずれ二日から書き出したんでしょうが、お客があったり、用で立ったりするので、なかなかひと息には書ききれないで、四日までかかったものと思います。途中でとぎれて、また書くのだから、よほどの意志力がなくちゃいやになっちゃいますよ。こんなに長いものをね。そういう人だから、原稿だってとてもきれいでした。』

この対談には、会話の中に登場する武郎の写経が掲載されており、恐ろしいほど綺麗な楷書体で書かれています。機会があれば、この対談が掲載されている本を手にとってみて下さい。

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