5/12雑記 「黒い雨」に寄せて

5月になり、昨年の5月27日に広島にオバマ米大統領がやって来た事を思い出す。
実にこれは画期的な事であった。

私の中学生時代の担任の先生は、広島の原爆によって両親を亡くした方だった。
先生は当時、8歳で14歳のお姉さんと一緒に広島に働きに出て帰って来なかった両親を探しに、原爆が落とされた次の日に広島へ行ったからだ。

結局、ご両親は帰らぬ人となっており、流れる歳月の中で先生は、ご自分を一人の国語教師に仕立て上げた。

この先生は、国語の授業で「黒い雨」をやる時、いつも大泣きをして授業がウンザリするほど進まないことで有名だったし、その実、本当にそうだった。
だから、先生の授業で一番長く学ぶ作品が「黒い雨」でそれから後に掲載されている、他の作品は残念ながら履修しなくても大丈夫だという、先生のお墨付きの元、重要な作品以外は得てしてすっとばされた。
私は、先生が鼻水を垂らし涙を流しながら、かの作品を教える時、飽き飽きしながら次に学ぶであろう作品を全て読んでいた。先生が、痛いほどに泣くその理由がよく分かったので、冷たい態度を装うことでしか、当時の自分を守ることができなかった。
広島の近隣県に住んでいると、何らかの形で、原爆ドームに行くことは授業として必須になっていたし。そんな訳だから、いずれかのタイミングで必ず原爆ドームに行き、今はもうない凄惨な蝋人形に入り口でカウンターパンチを食らわされ、必死に恐怖心を抑えながら、実に敬虔な気持ちでドーム内を見て回ったからだ。

実際、あの蝋人形が果たした役割は凄かった。

あれを最初に見せられたら、自分が今、何を学びに来たのか。文字や言葉がいまいちよく分からなくても、これが現実に起った事だと芯から理解せざるを得ないし。展示物に対して本当に真剣な気持ちで臨まなければいけないことが、無言の内に理解できるからだ。
展示物のほとんどが、白黒の写真だったことは救いだった。

先生は、あの本当にひどい状況を肉眼で見てしまったのだ。

時々、原爆ドームの展示物の中に差し挟まれるように、米軍が撮影した当時のカラー写真が姿を見せ、これが現実だったことを容赦なく浴びせてくる。写真は当然ながら、どれもひどいもので見ていて、泣かない方がおかしいものばかりだった。

だから、「黒い雨」の履修中に何十年経とうと泣く先生を見て、しょうがないと思えど、泣くなとは皆言わなかったし、他の先生方も言わなかった。
先生の涙は、我々が触れることが出来ない当時の「現実」を「今」に教えてくれる唯一の言葉だったからだ。

私には、この先生以外にも広島に原爆が投下された次の日、広島に入った方に就いて色々と学んだ経験がある。
その方は、茶道の師匠で、もう亡くなられてしまったのだが、齢90を過ぎてパソコンを学んだり、ダンスを始めたりと向学心が強く、柔軟にそれでいて強かに生きていた方だった。

絶えず「何か、新しいことを学びたいわ」

と言って、学ぶことを生涯辞めなかった方。
原爆が投下された翌日、広島を焼いて上がった煙は山口県の岩国市から柳井市まで見えたそうだ。
当時、山口県に在住していた師匠は、既に原爆投下の夕方には「広島に何でも新型爆弾が落とされたんじゃと」という風聞を耳にし、広島市宇品に住んでいる妹夫婦が心配だからと、次の日、広島まで歩いて彼女たちの安否を確認しに行ったのだった。

広島市まで行きたいが、なにぶん道が分からないため、お弁当をこしらえて朝の4時から線路沿いに歩いて広島に入った。
途中、広島市の手前の大きな川を渡るための橋が見当たらなかったので、しょうがなく線路用の陸橋を四つん這いになって渡ったそうだ。
先生曰く、電車が走って来たら一巻の終りだと思いながら必死で渡ったが、橋の途中から見えた広島市の眺望に愕然とし、妹夫婦は最早生きてはいないだろうと思ったらしい。
なんでも、当時の広島市は川沿いに沢山の樹木が生い茂り、一見するとまるで森の中に街があるように見えたそうだ。それが、川向こうからでもはっきりと木々が無い事が視認できて。まさか…と思いながら渡りつつ、茫然としたそうだ。
(現在においても線路用の陸橋を徒歩で渡ることは犯罪ですので、いらっしゃらないとは思いますが、くれぐれも渡らないで下さい。また、当時は戦時下という特殊な状況であったことをご理解いただけたらと思います。)

しかし、師匠の予想とは裏腹に妹夫婦は、無事だった。爆心地よりかなり離れていた宇品に居を構えていたことが幸いし、被害が少なくてすんだのだ。
それでも、宇品の病院周辺は騒然とし師匠の友人が働いていた病院では、爆風で窓ガラスが全て割れ、その友達は背中全体にガラスの破片が刺さり、亡くなるまで毎年のように梅雨時期になると背中が痒くなり、シャワーを浴びると背中から、細かなガラスの破片が流れて出てきたそうだ。

さて、妹夫婦の安否が確認でき、ほっとしたのも束の間。どうやって広島から山口へ帰ろうとなった時。
丁度、お昼から山口へ行くための電車が動くという言う事を聞きつけ、それに乗って帰宅することができたそうだ。

今、師匠が描いた当時の広島市の絵は、原爆ドームに寄贈され展示されている。

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