阿部六郎が語る中原中也1

1948年2月(昭和23年)に雑誌「新小説」にて発表された、阿部六郎の「中原中也断片」を『』内に引用の上、下記に掲載しております。阿部六郎氏はドイツ文学者であり、評論家としても腕をふるった方です。中原中也との交友も深く、彼に対して音楽的な余韻に満ちた美しい随想をいくつか残しております。中原自身も阿部六郎に対し「つみびとの歌~阿部六郎に~」という詩を書いていることから、二人の交友の深さが窺えますね。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

中原中也断片

      阿部六郎

 代々木富谷の、小さい谷を挟んだ丘の一つに、明治時代の遺物のような青緑の色も薄ぼけているが割にがっしりした木造の洋館があって、年老った未亡人が大きな息子を学校へ通わせながら間貸しをしていた。その頃同僚だった村井康男が多分学生時代以来二階の八畳を占領していたが、昭和三年の五月頃、私は一つの時期を劃(かく)したいような気持もあって山谷の下宿からその家の階下の四畳半に引越して来た。 北向きの薄暗い部屋だったが、少し外の社会に散らばりすぎた心を引きまとめるには、影深くこもった感じが却ってふさわしいように思われた。
 或る日、村井に呼ばれて二階の部屋へ行ってみると、異様な男がビールをのんでいた。すきとおるように白い肌理のこまかい顔は、特に額のあたりに蝋のような光沢があって、その時はビールで薄紅い色を帯びていたが、眼は偽りをゆるさぬ厳しさと静かな熱をたたえて、ただならぬ輝きに満ちていた。顎が短くて頬の張った五角形の顔の輪郭は、そう変ったところはなかったが、眉間のあたりの一元の中心に引き緊まりながら多面に向って清潔な線を放射し、苦しみに刻まれながら優しみをたたえ、大抵の顔ののがれられぬ縦の世界が横の世界の余剰や混乱からくる甘さや濁りを絶して透徹しているように思われた。小さな軀をルパシカにして半分ガウンに近いような黒い上衣と黒いズボンに包み、何か憤りのような話をひとりで続けていた。始めは高かった声がだんだん低くなって行き、歌のようになり、呟きのようになって行った。
 それが中原中也だった。中原の詩は、その前に諸井三郎氏達の「スルヤ」のパンフレットで『臨終』と『朝の歌』の二篇、村井から見せられ、古風な格調に盛られている全然新鮮な感情に魅せられていた。

──これは自らの周りを廻転する輪だ、とやがて村井達がどこかへ出て行ったあとで私は思った。

 それから何日かたって、私が外から帰ってくると、丁度玄関の戸をあけようとしている中原の後姿を見かけた。村井が今不在だと言うと、それなら君でもいい、今日は少し金があるから渋谷へのみに行かないかと言った。
 午後の日の薄くけむっている地下室食堂の片隅で私達はビールをのんだ。たしかボードレールとヴェルレーヌの話をしたのを憶えている。羞恥の過剰から倨傲(きょごう)な仮面に凍結する心の危険と、質朴な裸身に流動する心の魅惑とは、その頃の私にとっても無縁のものではなかった。二三時間そんな単純な対話をして夕方になると、彼は「僕みたいなものでも招待してくれるところがあるから」とか言いながら、立ち上った。あのような節度のある会い方から始まったということが、あとから思うと不思議なような気がする。
「俺と始めて会った時、顔を赤くしたような人を忘れられるか」といつか中原が言ったことがある。私はそんな筈はないと言い張ったが、彼は承知しなかった。』

倨傲(きょごう)・・・おごりたかぶること。または、傲慢。

阿部六郎が語る中原中也2へ続く

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