阿部六郎が語る中原中也2

阿部六郎が語る中原中也1の続きとなります。1948年2月(昭和23年)に雑誌「新小説」にて発表された、阿部六郎の「中原中也断片」を『』内に引用の上、下記に掲載しております。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

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『その頃彼の下宿していた中野の奥の炭屋の二階へも、一度訪ねて行ったことがある。何かがやがや話していた荒くれ男の一人が怪訝そうな面もちで私をじろじろ見てから、「なあさん」とか何とか大声で呼ぶと、中原が出て来た。危っかしい階段を登って行くと、部屋には何か黒い幕のようなものが張りめぐらしてあったような気がする。机の上には大きな獅子のようなヴェルレーヌの肖像があった。
 京都の中学生時代の「ダダイストの手帖」や多数の詩稿は焼き棄ててしまったあとだった。あの頃は宇宙のことが全部分かっていた、今は何も分らなくなってしまったとよく言っていた。大きな喪失感、衰滅の歎きの中にあった。失楽園の悔が彼にはつきまとっていた中原のような魂の少年時の全一な陶酔感を私は信ずる。詩の上でも、『山羊の歌』や『在りし日の歌』のごく初期の詩に見られるような、鋭角的だが、非情な、何か清冽な鉱石のように硬い美から、もっと柔軟で自在な曲線を帯びた肉と心情のふくらみへ入って行こうとする時期だった。たとえば「今宵月はいよいよ愁しく、養父の疑惑に瞳を睜(み)る」とか、「今宵☽は茗荷(めうが)を食ひ過ぎてゐる、済製場の屋根にブラ下つた琵琶は鳴るとしも思へぬ」とかいう二篇の「月」の詩などは、中原の陥没した石層の美の面影を思わせて既に無類のものであるが、そこからもっと人間くさい世界への移行は、中原自身の喪失感の底から生れて来たのではあろうが、私はやはり大きな成熟であると信ずる。
 
 そのうち、中原は中野の下宿から富谷の少し離れた丘の上の二階へ引越して来た。
 
 中原の念願は「神意の世界へもぐり入る」ことだった。生きたリアリティ、実在の底の生きた泉に浴することだった。謙虚と無意識による一元の獲得だった。日本の「封建制度のあやまち」を憤りながら、近代意識の害悪に価値転換をほどこしていた。彼はダンディズムを憎んだ。生命を遮断するからいけないと彼は言った。意識が意識をうんで構えた虚妄の網のからくりに、対人意識のおそれに、一番大切な純一な自然なよろこびがしめ残されて行く。一番大切な潤いを涸渇(こかつ)させながら、「悪酔の狂ひ心地に美を求める」か、殺伐な復讐欲に目を怒らすか、泡のように寝も葉もない刺激に生きるか、世を挙げてそんな生き方に我を忘れている時代、神の子羊の純心に結集して生きようとする詩人の現存を見ることは、驚異という他なかった。
「ヨーロッパでは人間と人間が対峙する時、その間に必ず神がいる。日本ではただの二人だ」と彼は言った。音楽では、ベートーウェンよりはバッハやモーツァルト、小説ではドストエフスキーよりはチェーホフを貴んでいた。歌に行くまでの心理的な模索や堆積の道程、それが彼にはじれったく、余計なものに思われた。獲得された統一からの流露と放射、それが芸術発声の頂点だった。「太陽の子にしてやろう」と言われてランボオについて行くヴェルレーヌの話と、仕事を終えて客間に現われるチェーホフの話が大好きで、「まあ何ていう親爺どもだろう」とでもいうような一種独特な調子で何遍か繰返して話した。
 日本の詩人達には大抵痛烈な裁きを加えていたが、高橋新吉は愛していた。「人は崩壊しないから崩壊する」といって、中途半端な安定を自足して守ろうとするところに立つ抒情や意匠よりは、一切を放擲した裸身に虚空の風の沁みるような声を貴んだ。彼自身絶えず絶望の危機にさらされ、生活の上でもたやすく崩壊に足をさらわれ、善意が不気味な悪に変幻するような時間にしばしば見舞われていたが、そういう虚空からにしても、中原の詩には、何か日の光のようなもの、幼児の生命力のようなもの、宇宙的に結晶して行く希望や祈りのようなものが、既に一種の倫理の骨格さえ帯びて肉化していることは、否まれないと思う。

 もう一つは宮沢賢治の『春の修羅』だった。まだ宮沢賢治の名など殆ど誰も知らない中から、『春と修羅』を何冊人にやったか分らないと彼は言っていた。』

阿部六郎が語る中原中也3へ続く

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