阿部六郎が語る中原中也6

阿部六郎が語る中原中也5の続きです。1949年9月(昭和24年)に雑誌「文芸」にて発表された、阿部六郎の「詩の道程」を『』内に引用の上、下記に掲載しております。中原中也と交友のあった阿部六郎氏がの彼との思い出を交えながら、熱く解説した内容となっています。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

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『古風な格調の中に盛られた新鮮な感情の充溢といふことと共に、自己感と生活外象の謙抑の対唱といふことからも、流動する全体としての魅力を湛へてゐるのは、やはり「朝の歌」と「臨終」である。
 「帰郷」は、全然作為の緊張を放棄した詩風からいつて、既に彼自身への帰郷であつた。

 これが私の故里(ふるさと)だ
 さやかに風も吹いてゐる

     心置なく泣かれよと
     年増婦(としま)の低い声もする

 あゝおまへはなにをして来たのだと……
 吹き来る風が私に云ふ

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 恰も彼の内に充満してゐた美の影像がすつかり溢れ出てしまつて、彼の魂がからつぽに傷だらけでとり残されたかのやうだつた。翼の折れた天使が泥濘に投げ出され、逃げ去つた美神を追ひかける力もなく、かつてその秘密を知つてゐた宇宙の壮麗の崩れ去つた幻影を悼んでゐるかのやうだつた。私は自分の魂を天の八方にばらまいた、これからそれを集めるのは骨が折れるとボードレールが言つたといふ話を、私が聞いたのは彼の口からだつた。ランボーの氾濫する祝祭は今尚彼を魅惑してゐた。だがそれは彼を苛だゝせた。ふと、ヴェルレーヌの野暮な図体が倉庫の間の泥炭の路次を歩いて行く。この路次を抜けさへしたら、抜けさへしたらと思つてゐる。彼はそれを見てゐる。護謨合羽(かつぱ)の反射(ひかり)を見てゐる。遐(とお)くの方では舎密(せいみ)も鳴つてゐる。(「夜更けの雨」)いつの間にか歩いてゐるのは彼自身だ。彼ははてしもなく路次を歩き廻る。風も雨も裸身にしみた。嫌悪と憤りがどこでも彼を刺した。すべてを剥ぎとられたと思つてゐた彼に、彼の渾一な魂が残つてゐた。それは搏動に充ち、生のリアリテイに一層密接してゐた。失つた失つたと思ひながら、それは実在してゐた。汚れた汚れたと思ひながら、今尚無垢で、ふくよかだつた。破れた破れたと思ひながら、やはり全的で、熱烈だつた。そこにはまだ神の影さへ澄んでゐた。近代、偽善のやましさなしに毅然として信仰を握りしめるといふことがどんなに困難であるかは言ふまでもない。衣装と夢を剥ぎとられただけに、中原の魂は一層虚飾なく狐疑なく自分自身である他はなかつた。喪失の空しさと心貧しい悲しみの中に、すべてが身に沁みるものとして一層切実にそれは洗ひ出された。彼の喪失感といふものも、実はかうして自分自身となる成熟の過程の錯覚だつたのではないかと思はれるぐらゐである。それが実際に喪失であり、衰退であつたには相違ないにしても、その苦しみを代償として行はれた成熟は、吾々にとつてかけがへのないものである。
 このやうな風にして、言葉が肉となるといふはたらきが行はれた。私は、中原の全生涯が新しい言葉の肉とならうとする一すぢのはたらきに貫かれてゐたと思ふ。彼のすべての惨憺たる摸索は肉とならうとする言葉の衝迫から発し、彼の断言的独白は、世の傾倒した価値観を変革しようとする自ら信ずる言葉の行動的な劇しい愛から発するものであつた。活きた霊に沁みた無形の言葉が肉となるはたらきが歴史の底を貫いてゐなかつたなら、地上の生活は断片と偶然と混乱にすぎない。「吾を信ずる者はは死すとも生くべし」と断言し得たほどの完全な言葉の肉化はゝ゛一人しかゐなかつたかもしれない。しかし世界と自己の内部から語りかける微妙な言葉を聴きつけて、何らかの普遍的な形相でそれを肉とする天命を負うた人は、どんな時代にもゐる。すべての表現者、形成者は本来さういふ人である筈である。さういふ人は、多かれ少かれ、受難者である。言ひ表はしがたい言葉を捉へる形相を彼等は無から創り出さねばならないし、肉が肉を保持しようとするおそれに充ちた世の盲目な運動、肉が肉を刺戟する残忍な逸楽は、霊の声を圧し殺さうとするから。自分自身の肉が既にさういふ抵抗と破戒を何より根強く潜めてゐるから。しかし殆どすべての世の営みが結局は肉が肉を保持しようとする貪婪(どんらん)な運動に帰することを知り、その殺伐荒涼とした断片と偶然と混乱の世界の無意味が肝に徹する時、さゝやかでも肉となつた言葉の綜合的な美が新しく心に沁み、地の意味と感じられてくる。──中原を駆り立てる言葉も神から発し、生命と共にある泉から湧いてくるものがあつた。しかし彼は観念論者でも、神秘主義者でもなく、現実の肉身にその衝迫を抱き廻つてゐた。』

貪婪(どんらん)・・・大変に欲が深く、欲に飽きがこないさま。

阿部六郎が語る中原中也7へ続く

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