阿部六郎が語る中原中也7

阿部六郎が語る中原中也6の続きです。1949年9月(昭和24年)に雑誌「文芸」にて発表された、阿部六郎の「詩の道程」を『』内に引用の上、下記に掲載しております。中原中也と交友のあった阿部六郎氏がの彼との思い出を交えながら、熱く解説した内容となっています。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

『しかしこの時期の彼の喪失感の中で成就された言葉の肉化といふのは、もつと実際的な意味のことである。詩が詩人自身に合致したのである。自己を疎外して無機的な世界に射影されてゐた詩が、唯一の生き場として詩人の現実生活の中に戻つて来たのである。それによつて言葉が肉と心情のふくらみを獲たのである。これが詩の堕落でないことは、『山羊の歌』の中の「盲目の秋」以後のすべての詩が示してゐる。自意識はもはや幻想的風景の一隅に点描されるのではなく、唯一の発生者である。しかし反省的に自分のプロフィルを描くのではなく、視点を統一する主体なのである。魂が日常生活の中から一元的な自分自身として語り出るどんな声でもそのまゝ詩となつてゐる。律動は自在で強靱である。吐き捨てるどんな声でも呟きでも詩となるといふこの自在さは、初期のどんな独創的手法よりも確乎たる独創性である。主観的に似たかういふ詩風が却つて万人の心に沁み入る安らかな客観性を湛へてゐる。そしてこまやかで純粋な彼の魂の烙印を帯びてゐるそのことが的確な美をこもらせてゐる。

 私の青春はもはや堅い血管となり、
   その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

 それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛へ、
   去りゆく女が最後にくれる笑ひ(ゑま)のやうに、

 厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでゐて侘しく
   異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

     あゝ、胸に残る……

                    (盲目の秋Ⅰ)

 物を言つてみれば初めて成熟の痕が人に見える。彼自身はその詩境や心境に安定するどころではなかつた。彼の魂は絶えず必死に動いてゐた。彼の生活は荒立ち、不遇だつた。まさしく「風が立ち、浪が騒ぎ、無限の前に腕を振る」やうな日々であつた。彼の念願は、実在の底の泉に接して魂を生々と流動させること、意識や作為で魂の流動を遮断しないこと、渾一体となつて潤へる宇宙と共に鳴響くこと、鳴響く宇宙の中に息絶えることであつた。言葉が肉となるばかりではなく、肉が歌とならねばならなかつた。青空に沁みる、軽やかな、飛ぶやうな歌とならねばならなかつた。彼は自分の詩がいかにもたどたどしく、渋滞したものと思はれて、焦つた。自然に背いてではなく、自然の中に初めて純粋を生かすことが彼の本性であつたにしても、自然を純粋に沁み透らせることの困難に彼は面しなくてはならなかつた。無意識な流動といつても、自然に流されるに任せてゐては、性急な渇きに充ちた彼の魂はたやすく悪酔と放埒(ほうらつ)に走り、世の限界に軋り、刺傷に苛だち、争い、毒づき、苦々しい悔恨と傷を残しては心のよろこびから遠ざけた。彼には生き方が大切だつた。生き方と歌ひ方と魂の保ち方が、彼にとつては一つのものだつた。無意志を願ふ彼には、無意識を荒廃させないために智慧が必要だつた。『山羊の歌』のこの時期によく見られるモラル風の関心は、このやうな世に順応するためではなく、このやうな世にありながら魂を破滅から護り、よき歌が育ち得るやうに純粋に保つために切実なものであつた。』

阿部六郎が語る中原中也8へ続く

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