阿部六郎が語る中原中也13

下記の『』内の文章は昭和17年12月に出された「蜂鳥」五 岡本信二郎追悼号に掲載された「思ひ出」のちに改題され「岡本先生の思出」から引用しております。内容も、岡本信二郎先生に寄せたものとなっております。

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『暫くたつて六月の蒸暑い午後、私は偏頭痛に悩まされてどうにもやりきれずに寝転んでゐた。そこへ黄色い封筒に入つた先生のお手紙がとゝ゛いた。吸ひつくやうにそれを読んでゐる中に腹の底からむくむくと笑がこみあげて来て、暫くひとりで笑つてゐる中に、偏頭痛はさつぱりと癒つてゐるのに気がついて驚いた。
 先生の追悼文に自分一身の不幸にかゝはる先生の御弔文をかゝげる非礼を許して頂きたい。今読返すと、先生を失つたむなしさまでも先生自身に慰めて頂いてゐるやうな気もするのである。

 「或停車場──多分上野駅──」のプラツトホームらしい所である。大学生の制服を着けた阿部六郎がしよんぼり佇んでゐる。
 恰度汽車から下りたばかりの私はその六さんを見付けていきなり両肩を両手で抑へて、
 「おい、どうしたんだ、いやにしよげてるぢやないか」
 と、言ふと、六さんは俄然私を両腕で力強く抱き締めて、猛烈に私の顔を吸ひはじめた。
 数日前の夢である。夢は自己内面の何かしらをあばくものだから、それをあけすけ語ることは、どうしても痴人の告白になる。此の夢を見た時よりも更に数日前に私は長谷川さん──上ノ山から山形への汽車でいつでも一緒になる養徳園の先生──から六さんの不幸のことを伝聞して、お悔みを述べようかと思ひ煩つてゐた。去年中原中也に死なれたことはきつとひどい打撃だつたに相違ない。それどころか肉身のお小さいのを失つたのも去年のことだと思ふ。然るに今年は「そのかの母」を引つゝ゛いて失ひどんなに悲歎に暮れてゐることかと、そのお悔みをさあ何と述べたものかと思ひ煩つてゐたのである。この春の「治作」の夜の六さんが思ひなしかいつもより元気のない姿に浮んで来たりした。
 けふ学校で勝川さんに大学新聞をお読みでしたかと言はれて、六さんの書いた『禁断の木の実』を読んだ。私は何とも言ひ難い涙を流し、且つ省みて忸怩(じくじ)たらざるを得ないものがあつた。終りに近づいて「六は吸ひとりやがる」来たとき卒然として数日前の夢を思ひ出した。私の顔を猛烈に吸つたあの六さんが。さうだ。夢は何かしら自己内面の消息をあばくものには相違ないが、その現はれ方はやはり夢の中野相手次第でそれ相応の特色を発揮するものである。
         昭和十三年五月三十一日夕

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 これは我のみの心覚えの手帖からの抜き書きである。従而何のことかわけのわからぬ箇所もあるかも知れない。何しろ何か、転居の知らせに添へてと、思ひつゝのびのびになつた、あしからず。いづれ又。匇々(そうそう)
         六月二十四日朝              をかもと

 去年の一月大庭征露君に道案内をして貰つて初めて鎌倉の家を訪ねた時、先生はお留守だつた。亡友中原中也の住んでゐた寿福寺のすぐ近くなので驚いた。中原がまだ生きてゐて先生と親しくなれてゐたらどんなによかつたらうと思つた。懐しくそこの境内を歩いてみると、中原の住んでゐた家からはベートーヴェンらしいピアノソナタが巌壁にぶつつかつて晴れた冬の朝空にひろがつて行つてゐた。中原の葬式の後、二三人で薄暮の砂浜に坐つて聴いた海の底鳴りの音を思出し、何か心の溢れる思がした。』

阿部六郎が語る中原中也14へ続く

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