阿部六郎が語る中原中也14

下記の『』内の文章は昭和19年6月「新潮」に掲載された「死の近接について」より引用したものです。内容としては、アルチュール・ラムボオの妹であり、彼の最期を看取った妹イサベルが書いた本についての言及から始まります。

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『最近古本屋で見つけたその妹イサベルの『アルチュール・ラムボオ終焉』といふ本を読んで、ニイチエが「神の死」といふ一言で喝破してその根本的な再建に苦闘した欧羅巴の巨大な崩壊をいち早く洞察して、燦爛たる天才をその犠牲と燃やしつくした一種の予言者、「かずかずの邪教的な毒に酩酊し、また至極危険な思索のなかで精神を追求してゐると承知しながら罪を犯してゐる魂、善と悪とが一体化したやうな魂、言葉のカトリック的な意味で汚れたこの詩人の魂」が、敗戦の噂に昂奮した群衆の愛国の歌に沸き返つてゐる夕方巴里を去つて、アフリカの瘴地を遍歴しながら聖徒のやうな禁慾と献身の生活に没頭し、自分の残して来た詩を「悪」として否定し、遂に奇病に蝕まれて惨憺たる苦痛の日夜を続けた果に、一切の秘蹟を受容れて従順なカトリック信徒として終焉した記録を大変面白く思つた。燃えさかる霊肉をもちながら近代欧羅巴に絶望した精神の辿る道程を鮮かに見たやうな気がした。中原中也の訳した『ラムボオ詩集』に溢れる異端的陶酔とキリスト教冒涜の言葉にも拘らず、小林秀雄氏の名訳『地獄の季節』でキリストと邂逅した彼の心奥の息吹に触れてゐた私は、『反基督者(アンチクリスト)』の激越な弾劾の中に燃えさかる生命としての活けるキリストへの純粋な愛を洩らしたニイチエとも思ひ合はせて、彼が臨終の床で妹に、「お前は僕と同じ血をひいてゐる。信じてゐるかい。ねえ、信じてゐるかい、お前は?」「──僕等は確かに同じ魂を持つことができる訳だ、僕等には同じ血が流れてゐるから。信じてゐるね、それでは?」と繰返し囁いた消息を見て、何年かの謎を解かれたやうな気がした。ニイチエが「神々もその衣を羞づる南方」と歌つた善悪の彼岸はどこにあるのか知らない、ラムボオが崩壊する欧羅巴を遁れて行つたアフリカの炎熱の奥まで、冒涜された彼の血の神は彼を追ひかけて行つて遂にその魂を全的に抱きとつたのである。しかもラムボオは、ニイチエと同じやうに、群衆の嘲罵を浴びながらやはり彼の十字架の苦痛を通りぬけずには済まなかつた。そのゴルゴダがキリストよりも長かつただけである。
 私は亡友中原中也のことを憶つた。彼は唯物史観全盛の時期にあつても断乎として神を信じてゐた。私と邂逅(めぐりあ)つたそもそもの初めから彼の信仰は殆どカトリックだつた。何かの話しをしながら妙に真剣な気勢で急に「さあ今すぐ洗礼を受けに行かう」と私をせき立てた夏の日もあつた。彼の躍動する詩と生活の泉であるその柔い全的な霊性は何かしらこれまでの日本に見られない新しい異質のものがあるやうな気がしたが、その無意識に流露するもの、そこから出る地上の日々の切実な悲しみや苦痛を見ると、どうしてもこれは生のままに根ざした本ものであることが疑へなかつた。中原は詩の上では既にラムボオの悪童の域を脱して全的にヴェルレーヌを愛し、殊に河上徹太郎氏の訳もある貧しき心のカトリック頌歌(しょうか)『叡智』の域に至らうと願つてゐたが、年齢せゐか言動のせゐか、彼を日本のラムボオとしか見ない人が多かつた。彼の生命頌歌のどの一つの底にも何かしら死の切迫感がひそかに流れてゐて、よろこびの奥に深い悲しみを湛へてゐるが、彼は霊魂不滅を信じてゐた。「ただ生死しなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。……生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふときには、滅のほかにものなし。かかるがゆゑに生きたらば、ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひて、つかふべしといふことなかれ、ながふことなかれ、……いとふことなくしたふことなき、このときはじめて仏のこころにゐる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなkれ。ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはあれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。云々」といふ道元の深い無意志kいの流動性を見てはゐなかつたらしく、親鸞の「総じてもて存知せざるなり」といふ虚心を自分の声のやうにして愛してはゐたが、大体仏教の性的生命遮断に彼は反撥し、宣長翁の「直毘魂」には感心してゐた。その彼も鎌倉の古寺境内の岩壁の傍の家に死ぬ前まで暮し、恐らく何も知らずに故郷に帰る返るとその支度を済ましておいてどこか遠いところへ帰つてしまつた。彼の魂の故郷は一体どこだつたのか。私は彼の最後の言葉を聞きたかつた。しかし私が鎌倉の病院に駆けつけた時にはもう昏冥の状態で、徒らに彼の最後の秘密に迫りたい気持を苛だたせる手の動きばかりだつた。ただ、かつてトーマス・マンの描いたゲーテの臨終をもつと痛々しく、意識の残つた手で蒲団の上に何かしきりに字を書くさまで、目のあたり詩人の最期に私を愕(おどろ)かせて行つた。一体それは何事であつたか、どんな大秘密であつたか。

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 友人達のはからひで彼の葬式はその禅寺で営まれた。彼は当時は仏教とキリスト教の同時信仰といふやうなことを言つてゐたと或る人が話した。私はその夕方、二三人で浜辺まで歩いて薄闇の中で意外に底鳴り強く轟き寄せる潮の音を聴いた。この音がどうして日本の交響楽には出て来ないのだらうと思つた。中原はどこへ行つたのだらう。昇天といふよりは何かその辺にみなぎつて行つてゐるといふ方が中原らしいと思ひ、さう言つた。
 私が高等学校時代、詩や芸術や人性や思想や、あらゆる面で私に殆ど決定的な感化を与へてくれた岡本信二郎先生が亡くなつて。恰度今日は二周年の命日である。先生が青年以来人知れずしかも全身を傾けて書き続けて来られ、殊に最後の病院生活の一月ほどの間は殆ど毎日自在に生れて来た世にも稀に立派な詩稿の中から私の編纂を託された詩集は先頃出て知友門弟の間に頒(わ)けられたが、その先生が偶然中原の『山羊の歌』を発見して非常に愛読して居られた。『山羊の歌』の中で、「或る夜美しい魂が啼いて もう死んでもいいよう もう死んでもいいようといふのであつた(中略)夜空は高く 祈るほかにはすべがなかつた」といふ詩が一番いいといふことで先生と一致して私は悦んだ。先生が任地である私の郷里を去つて移られた鎌倉の寓居を初めて訪ねた時、それが中原のゐた古寺のすぐ近くだつたことに私は驚き惜しんだが、先生の百日忌の席で「わが死後のかかる夕べをうつ浪のとどろくをきく思ひして居り」といふ歌の短冊を読んだ時、私は思はず中原の葬式の夕方の潮の底鳴りの音を思ひ出して胸を衝かれた。この歌が或る結婚の祝に寄せられようとしたもので、この浪のとどろきに永遠に流れる大生命のとどろきを感じた私の予感が誤りではないらしいと分つた事情にも、或る魔神的な偶然がある。尚、先生の遺した手記を整理してゐる折、先生が若い頃初めてキリスト教会で十字架像を見た時、不気味な、穢らしいといふ印象を受けたといふ一節があつたが、これもここの血と神の主題の覚書に容れさして頂いていいであらうか。』

阿部六郎が語る中原中也15へ続く

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