徳永直の小説勉強 – 志賀直哉2

昭和18年(1943年)に出版された徳永直(すなお)の「小説勉強」より、徳永直が学んだ小説家に対して宛てた随筆を現代語訳した上、掲載しております。ここでは、志賀直哉編を下記の『』にて引用しております。この原稿を執筆した当時、徳永直は志賀直哉と小林多喜二の間に交流があったことを知っております。徳永直の研究の一助になれば幸いです。

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『その後、十六七歳のとき、「新小説」という雑誌を、古本やで二銭か五銭で貰い題も作者も忘れたが、ある小説を読んで非常にびっくりしたことをおぼえている。小説の筋は今日もよくおぼえているけれど、ここには書かない。とにかくその小説でびっくりしたことは、文章はかざるもんではないということ、醜かろうと何だろうと真実のことを書く、真実と思ったことを書くもんだ、ということであった。
 その後もいく度か旅行し、いくつか旅行文を書いた。そして文章は正真正銘のことだけを書くものだと、自分では肝に銘じたつもりであったが、やっぱり若干は飾り、若干は嘘を書いてしまったようである。じっさい嘘を書かぬということはむずかしい。人間の心とか感情とかいうものは常に活動状態にあるのであってそれを偏っておさえつけるとそれも嘘になる。文章となれば初戦は一面的であって、人間感情の瞬間のうちに多種多様に活動するその全部を、とても同時的にトラえることは出来ない。旅行での外界の事象がかもしだす印象の、どのへんをひっぱりだすか、なかなかわからない。出来事としては大きくても、それを見る人間の心の世界へは、その比例と同一に映らないことが多い。小さい印象でも、却ってそれが重大にひびくことがある。つまり印象を整理する。雑多なものからどれを棄てるかの方が、かえってむずかしくなる。
 志賀の小説「網走まで」は十五六枚の短篇である。処女作と謂われ、明治四十一年の作であるが、今日読んでもまことに新しい。まるでもぎたての林檎を嚙み割ったような新鮮さがあって、私はこの小説を読むたびに芸術の有難さを思う。この文章は今後何百年経っても、その新鮮な芳香を失わないだろう。「網走まで」は、日光へ旅行する主人公が同じ汽車の中で、夫の赴任地へ子供をつれて旅行している女の印象を書いたものである。何の奇もない事柄である。通俗小説のように偶然んむかしの恋人であったとか何とかいうのではない。たかだか赤ン坊に泣かれて困っている内儀さんに手を貸して背中へおぶわしてやるといった、日常誰でもが電車の中などで経験している何でもないことである。つまり、もっとも日常的な現実からエキスをしぼりだしたということ。しぼりだした主人公の心の世界はかくの如く自然に結びついているということ。従って最も真実のことを書いたということ。誰もが日常経験する故に、却って印象の鈍っているような事柄を、これほど鮮やかに印象し表現したという文章は、他にあまり例を見ないものである。

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 「網走まで」は小説である。ただの旅行文ではない。それが何故に小説になっているか?それは書き出しの一行をみればわかる。つまり「網走まで」は旅行文と同じようでありながら、それが小説になっている。その区別、何が故に小説になり得たか?それを調べるにも適当な小説である。誰でもが旅行文などから作家の道には入ってゆくのだが、そのけいじめを知るためにも、また日常忙しく働いている勤労生活者が、己の見聞をもとにして短いものから、小説を作る道しるべにも、志賀のこの種の作品は、多くの学ぶべきものを持っている。

   宇都宮の友に、「日光の帰途には是非お邪魔する」と言ってやったら、「誘ってくれ僕も行くから」と返事を受け取った。

 「網走まで」の一篇はこう書き出してある。小説の書き出し数行はその骨格を決めるものである。逆にいうと頭の中でモヤモヤしている主題が自ら熟さないとこの数行の書き出しはうまくゆかない。志賀の短篇の特徴の一つは書き出し数行で既に主題を美事にきめていること、殺して殺してこれ以上一字も削れないまでに要約し、要約したために益々ふくらみが出来ていること、じつに平易で、のっけから文句で嚇かすようなものが微塵もないことである。「網走まで」を繰り返し読むならば、この二行足らずが全篇の土台となってどれ程の重みを支えているかがよくわかる。主人公の行動、全体の気分と美事に調和している。』

徳永直の小説勉強 – 志賀直哉3へ続く

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