徳永直の小説勉強 – 徳田秋声3と島崎藤村1

昭和18年(1943年)に出版された徳永直(すなお)の「小説勉強」より、徳永直が学んだ小説家に対して宛てた随筆を現代語訳した上、掲載しております。ここでは、徳田秋声編と島崎藤村編を下記の『』にて引用しております。徳永直の研究の一助になれば幸いです。

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『そんなうちにも、はたらき者の彼は資本よりは身体をはって、すこしずつ店のどだいをかためてゆくが、作が流産して、ともあれ肥立ちもよくなって帰ってきた日、つくでもない離れるでもない新吉と国との心理に、ある荒っぽいけじめがついて、勝ツ気な国は、みずから千葉あたりの甘味屋に口をさがして出ていってしまう。
 出てゆかれてサバサバしたという程の元気もない新吉ではあるが、それでやや無理往生ながらケリもつき、作はまたどなられながら二度めの妊娠をした頃に、新吉の店は順調に荷樽を軒先へつみあげて、三周年記念の売出しをやる程になっていた。
 筋といえばこれだけのものであるが、ここで登場する三人、新吉、作、国のそれぞれは、じつに美事に性格が描かれている。新吉の女に対するあらッぽい仕打ちや、貨幣に対する観念やには、明治末期の小商人の風格が躍如としているし、百姓出で女中あがりの作の卑屈な性質と、どっか都会の裏町的なものと、くらい影をひいてる勝ッ気なあらっぽさをもっている国の風貌、言動とは、当時の東京の小商人社会をつたえて遺憾がない。
 秋声独自の男女間の特徴ある心理描写はここでもよくでているけれど、私たちがここで先輩作家にまなびたいものは、新吉なり作なり国なりの人物を、これほど生き生きと特徴的にとらえた点にあると思う。その個々人の特徴が美事にとらえられているために、そこに何の説明も要らずにその時代の社会的性質が、その人物たちによって無言のうちに語られてあますところがないという点である。』

上記で、徳田秋声編は最後になります。以下からは、島崎藤村編が始まります。

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島崎藤村は、徳田秋声と同じ1943年8月22日に亡くなりますが、徳永直がこの原稿を執筆した当時は存命でしたので、健在であることを前提とした内容となっております。
作家同士で同年に亡くなったのは、何もこの二人だけでなく、同じ年度内に横光利一が12月末に亡くなったところ翌年の3月に菊池寛が亡くなるなど。詩人では、北原一門の萩原朔太郎と北原白秋が同年に亡くなっています。なんだか、深いつながりを感じさせますね。

島崎藤村

 島崎藤村は現存する作家のうちの長老で、徳田秋声と同じく、もはや七十才をこえる。どちらも明治二十年代に文学活動をはじめているが、徳田秋声が徹頭徹尾散文作家であるのに比べると、島崎藤村は詩人であり小説家である点がちがっている。
 秋声は金沢城下の士族に生まれ、藤村は木曾山路の御本陣に生まれている。どちらも明治維新直後の急激な文明開化の光をあびて、近代日本文学創造の重要な役割を果たしているが、秋声の自伝的作品「光を追うて」と、藤村の「故国を見るまで」や「夜明け前」などを比べて読むと、その相違がよくわかる、もちろん両作家の特徴相違であるが、同時にふり伝統をもつ大藩の御城下町と、木曾路の山村に生をうけた人とのちがいが性格的に作品を貫いている気がする。
 秋声が「町の人」ならば、藤村は「村の人」である。秋声の小説は八百八町のお江戸の太陽のように屋根から出でて屋根に没する感じがあるが、藤村の作品は山から出でて山にかくれる気持がする。どちらが近代的であるとかないとか、或いはどちらが日本的であるとかないとかは、決して言えないが、この近代日本文学の大きな背景を成した両作家を理解する上にこの相違は後進の私たちにとってなかなか興味ある事柄である。』

上記の太陽うんぬんの解説を読むと、徳永直は熊本県出身の作家ですので、恐らく東京に初めて出た時は日が沈むのが早く感じられたのではないでしょうか?日の出と日の入りに一時間くらいの誤差があるので、太陽の運行に日本の大きさや広さを深く感じたのではないかと思われます。

徳永直の小説勉強 – 島崎藤村2へ続く

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