徳永直の小説勉強 – 島崎藤村3

昭和18年(1943年)に出版された徳永直(すなお)の「小説勉強」より、徳永直が学んだ小説家に対して宛てた随筆を現代語訳した上、掲載しております。ここでは、島崎藤村編を下記の『』にて引用しております。徳永直の研究の一助になれば幸いです。

『藤村は決して流行にかぶれるような人柄でないことは作品を通じても読者にわかる。厳格な父を畏れてもいるが、いろんな文章で父の思い出を書いているように、非常に愛してもいたと思える。しかも藤村は英語を学び、クリスチャンとなり、当時としては最も世間的には信用のない文学の徒となって、その青少年時を東奔西走している。貧苦とたたかい、世間の白眼視とたたかいながら、急調に興隆する新興日本の文学のために、草鞋がけの一貧書生は眉をあげて、文学の友を西にたずね東に探りして「文学界」などの創刊に当たっている。藤村という人の、うちには厳しいものを秘めながらも篤実謹厳な人となりから考えると、それだに時代の力というものを読者は感じるであろう。
 当時の文学者は大抵語学をやり、外国小説の翻訳をやった。秋声もそれをやり藤村も二十一才で翻訳仕事をしたがそれが文学への入門道筋となっている。このことは後身の私たちがよく記憶しておかねばならぬことである。当時の日本では近代文学の伝統はまるで創始されねばならなかったからで、二葉亭四迷を筆頭として、当時の作家はこれをとりいれ日本流に完成せねばならなかったからである。今日の私たちが語学の力なくとも、いきなり近代文学にはいってゆける素地はこれらの先輩作家が開拓したのだ。
 しかも外国文学の模倣であっては日本文学は建設されない。藤村が二十六才で詩集「若菜集」を出してのち、三十三才で長篇小説「破戒」の稿を起こすまでの文学的道行は、後進の私たちが篤と心に銘じておいてよい。彼の詩集は「若菜集」以後数冊出来たが、信州小諸の小学教師をやりながら、ひそかに小説へすすまんとして営々刻苦した。「千曲川のスケッチ」は藤村が既に文壇に重きを成してから発表されているが、実は「詩」から「小説」に飛躍するその間の仕事として書かれたものだ。即ち二十九才の作で、年譜でみると彼はこの年始めて父となっている。「千曲川のスケッチ」は古今に伝わるべき名作であるが、詩から散文にうつらんとする藤村の自然な心境が、まことによく表現されていることを、読者のすべてが感得するだろう。

 そして藤村の小説家への飛躍のための辛苦は「破戒」を脱稿して、それをもって小学教師をもやめ、妻及び三人の子供をつれて、殆ど背水の陣の構えで上京した前後が、その絶頂に達しているかに思われる。
 明治四十一年(「破戒」出版後六年)に発表した短篇小説「芽生」で、その当時の辛苦がよく描かれている。生計は困窮する。長女、次女、三女の三人の子供は相ついで死亡する。「破戒」の一貫は有形無形の犠牲のうえに誕生したといっても過言ではないだろう。小説「芽生」の終りの方で藤村は書いている。
 ──「山から持ってきた私の仕事が意外な反響を世間に伝える頃、私の家では最も惨憺たる日を送っていた。ある朝、私は新聞を懐ろにして、界隈の散歩に出掛けた。丁度日曜付録の付く日で、ぶらぶらそれを読みながら歩いて行くと、中に麹町の方にいる友達の寄稿したものがあった。メレシュコフスキーが「トルストイ論」の中からあの露西亜人の面白い話が引いてあった。それは芽生を摘んだら、親木が余計成長するだろうと思って、芽生を摘み摘みするうちに、親木が枯れて来たという話で、酷く私は身につまされた。──芽生は枯れた、親木も一緒に枯れかかって来た。」──と作中人物は呟いている。
 文学はまた辛いものである。近代日本文学の背景を作った藤村作品は、そうした辛苦のうちにきづかれたものであることを、読者のすべてに教えるだろうと思う。』

以上で、島崎藤村篇は終りです。次回からは、森鴎外篇が始まります。

徳永直の小説勉強 – 森鴎外1へ続く

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です