徳永直の小説勉強 – 森鴎外1

昭和18年(1943年)に出版された徳永直(すなお)の「小説勉強」より、徳永直が学んだ小説家に対して宛てた随筆を現代語訳した上、掲載しております。ここでは、森鴎外編を下記の『』にて引用しております。徳永直の研究の一助になれば幸いです。

森 鴎 外
 いま文壇では歴史小説が盛んであるが、日本の歴史文学をいう場合、森鴎外を除外することは出来ない。
 森鴎外は、名を林太郎、文久二年(明治元年より六年前)に、石見国(島根県)津和野藩の医者の子供に生まれた人である。大正十一年六十一才で没したが、明治五年東京医学校に学び、同十二年陸軍軍医になり、十年独逸ライプチヒに留学した。明治四十一年には陸軍軍医総監となり、日露戦役にも軍医部長として出征し、腸チフス予防注射の道を拓いたなど、衛生医学上の功労もまた世人の知るところである。
 鴎外は医学博士のほかに、明治四十二年には文学博士の称号も授けられている。六十一年の生涯といえば大した長生きでもないが、文学方面の仕事だけでもおどろくべきほど多量であって、鴎外全集の多量さをみるものは誰でもびっくりするだろう。私はここで歴史に取材した小説だけに触れるが、鴎外の作品はもちろんそれだけではない。現代風の小説もあれば翻訳もあり、詩もあれば論文もある。その他伝記物や、各種の考証などあげきれない程であるが、鴎外の作品外形で特徴をなすものは、たとえば小説でも擬古文の古風なものと、現代風の口語体のものがあること、また詩には漢詩もあり、当時言われた新体詩などもあることである。まるで鴎外全集を通読(それは大事業であるが)すると、明治初期から大正時代までの、日本近代文学の過渡期をそっくり展開していると言っていい。ことに小説においては、初期の擬古文調から現代風の言文一致体への、いわゆる文学革新運動の実践者としても功労がある。

 鴎外は幼時その藩校で漢学を学び、一方では彼の父及び室良悦について蘭学を』学んでいる。蘭学はオランダ語で、江戸中期以来伝統があるが、文久頃には非常に一般化していた日本における唯一の洋学であったが、鴎外が藩医の子であり長じて東京医学校にまなび、さらに日本医学の太宗となった。ドイツに留学したなどいう経歴は、彼の才能と相まって、当時の日本文壇には是非とも必要な諸要素を備えていたといってよかろう。前記した鴎外文学の多種多様性も、そこに由来するところ大きいし、まだ日本近代文学の背景が出来上がっていなかった当時には、漢学と蘭学と独逸学と、こうしたバラエティは一体となって、幕末日本の文化を、維新日本の近代文化へ大きく転換誕生させる挺子(てこ)の一つとなったと考えられる。

 鴎外の歴史小説で有名なものに、「山椒大夫」があり「阿部一族」がある。前者はよく中等学校の教科書などに引用されるし、後者は数年前映画にもなった。また岩波の文庫本などでひろく読まれているものに「渋江抽斎」や「大塩平八郎」やその他「興津弥五右衛門の遺書」「護持院ケ原の仇討」「高瀬舟」等がある。
 鴎外が歴史小説を主として書き始めたのは晩年である。彼が作家として文壇にでたのは明治二十二年独逸から戻った翌年で、最初の作は翻案物であった。もともと翻訳だが、昔は人物の名や名所などを日本風に改めてしたもので翻案と言った。そして彼の作家としての初期、中期は現代風の創作や、文学上の論文や、そんなものが多い。つまり外国の近代文学の紹介のみに止まらず、日本の近代文学をつくるために大童(おおわらわ)になって奮闘したもので、坪内逍遙と美学についての論争は歴史的なものとして、今日も語り伝えられるところである。』

大童(おおわらわ)・・・一生懸命になること。夢中になってすること。

徳永直の小説勉強 – 森鴎外2へ続く

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