伊藤整が語る島崎藤村、三好達治、梶井基次郎

伊藤整は、目黒区にある日本近代文学館を発案から建築のための資金集め、及び理事を務めるなどをされた方で、ご自身の著作もありますが、やはり氏の代表的な仕事と言えば近代文学館の設立、及びそれに伴う文学の歴史を守るために文豪の遺品などの収集、保存になります。また、北海道出身で小林多喜二と同郷であり、よく見知った仲であったことも大きい方です。
このコラムでは、伊藤整の『我が文学生活VI』より「せまい坂道での島崎藤村」を以下、『』内に引用しております。

せまい坂道での島崎藤村

 昭和三年の四月に、私は商科大学(今の一橋大学で、当時は、いまの小学館や、岩波書店や共立大学や如水会館などの場所を占めていた)の本科に通学しはじめた時で、麻布の飯倉片町三十二堀口方に下宿した。主人は庭師だった。
 私は詩人で、数え年二十四歳であった。詩人の北川冬彦の紹介で私はその下宿へ入った。麻布六本木から芝公園へ向かう都電(当時市電)の停留場に狸穴(まみあな)と飯倉一丁目とがあって、その中間に、右の方へ入る幅一間あまりの下り坂がある。その坂を五六間下りて、一番低くなったところからまた七、八間上り坂になり、その坂の途中、曲がった道に囲まれるようにその家があった。広くはないが植木屋だから色々な木を植え込んだ庭の中にある小さな二階建てで、階下は四室位で家族が住み、二階は四畳半二間で、真ん中が押し入れで仕切られてあった。今行ってみるとその家は焼けて、土地の高低も道の曲り方も変わり、堀口家の場所も見当つくだけである。
 私の入ったのは左側の家で縁の障子を開けると、すぐ目の前を、この家をめぐってさらに上野方の高台の屋敷町へ出る道が通っていた。だから私はいつも障子をしめて机に向かっていた。
 越して二、三日したころ、そとで「おい、いるか」という声がする。障子を開けると学生服の阪本越郎がその道路に立っていた。私の詩の雑誌の仲間だから引っ越し通知を出したのだろう。彼の家は、その近くで、今の東京タワーの下にあった。大きな家で、そこへ彼を訪ねに行くと「若さま」と女中が言うので驚いた。彼の親父は坂本釤之助という貴族議員で、漢詩人であった。そのころから越郎は永井荷風の従兄弟になるということは聞いていた。

 しかし、当時同人雑誌などで名前を見るようになっていた高見順というのが阪本君の兄弟に当たるということは、その三、四年あとまで知らなかった。今では文学史的事実だからこれは書いてもいいことだろう。
 素人下宿堀口家というのは、そのころもう休刊になっていた同人雑誌『青空』というのの発行所になっていた。北川冬彦は、その同人であったが、そのころ彼は春山行夫と行き来して『詩と詩論』という季刊雑誌を計画していた。
 北川冬彦は、仲町貞子さんというものを書く人と一緒に住んでいて、多分『キネマ旬報』で映画批評を書いていた。私の入った室には、やっぱり『青空』の同人の三好達治がいたのだが、その前には梶井基次郎がいた。その梶井も三好もいま伊豆へ行っていて、当分帰らないということで、私がそこへ入ったものだった。押し入れには、梶井のものか三好のものかわからないが、古びたカラの行李が一つ置いてあった。
 私の室と反対側の北川冬彦の室は低地を見下ろすようになっていて、家々の屋根が見渡された。その一番低いところ、つまり電車道から入って坂を下りた低いところに、更に右に入る狭い路地があって、家数にして三軒ほどのところに島崎藤村が住んでいることを私は北川冬彦から聞いた。もっとも北川冬彦は、藤村を小説家だと考え、藤村がもとは詩を書いていたということは知らない、と言っていた。知らぬふりをしていたのかも知れない。
 そのうち梶井がある日伊豆から戻って、下の室の一つに入った。すると、淀野隆三、外村繁、中谷孝雄など『青空』仲間がやって来て、私はその人々と知り合った。
 ある日学校へ行こうとすると、電車道の方から、上品な小柄な老人が着物に白足袋をはいて下りてきた。写真で見た藤村である。
 少年時代から藤村の詩の読者であった私は胸がどきどき鳴るように思い、藤村だと気づいたことを向こうに知られまいとして平気でいるのに努力した。
 年譜を見ると彼はそのとき数え年五十七歳。「嵐」や「分配」を書き終えて、「夜明け前」を書く準備をはじめた時に当っている。』

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