伊藤整が語る室生犀星と萩原朔太郎2

伊藤整の『我が文学生活VI』より「犀星と朔太郎の思い出」を下記の『』内にて引用しております。室生犀星、萩原朔太郎、両名の研究の一助になれば幸いです。

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『その原稿の中に「詩の技術」とか「技巧」とかいう字があって、それが「技術」か「技巧」即ち』「枝」という字になっていた。一ヵ所のみでなく、二三ヶ所がそうなっていた。百田さんが「萩原もいい加減な字を書くことがあってね」と言ってその話をしていたところへ萩原さんがやって来たのである。そして百田さんがそのことを言って萩原さんにその原稿を見せると、萩原さんは、読んで、胡座をかいた膝の上で、ちょっと困ったような顔をした。この顔はたしかであった。そのあとで萩原さんは言った。
 「枝という字も技という字ももとは同じものなんだ。どっちだって構わないんだ」
 その言い方は、特有の口の中にごもごもと籠るたどたどしい言葉だった。萩原さんは不注意で書いたのは確からしいかった。聞いていて私は、なるほど、萩原さんの言い方が漢字の原型論として正確でないとしても、考え方として、枝であろうが技であろうが大差はない、と思った。字そのものは末節である、という一種のさとりの近くまで行くことができた。私は黙っていた。百田さんも黙っていた。
 私はこの食事の場面と、「技術」の「枝」の字の場面のどっちが先であるかを思い出すことができない。しかし受けた印象は同様のものだった。『青猫』の詩人が飯をぼろぼろこぼしながら食べることは構わない、と思ったのである。私は百田さんが好きだった。通常人で、分りがよく、親切でもあった。しかし私は『月に吠える』『青猫』の著者を本質的な意味で尊重していた。芸術家を「尊敬」するというのは、私の感じでは、正当な扱い方でない。芯の芸術家は人に軽蔑、嫌悪されることがあり得ると私は思っている。私はどの芸術家にしろ、尊敬するということはしたくない。私は萩原さんも「尊重」──「貴重視」していたから、飯をこぼすことぐらい当然に見えた。
 室生さんの言い方もまた、その感じがあった。第一次の友人である萩原さんを、第二次の友人である百田さんの前で恥しめるというものではなかった。この詩人はいくつになっても仕様のない男だ、という気配がそこにあった。

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 前の号に書き落したが、室生家での食事がすみ雑談が続いているうちに、百田さんと萩原さんが言い争いになった。室生さんはだまっていたように思う。この三人の間で、一番兄貴らしく振舞っていたのは、家の主人ということを別にしても室生さんであった。百田、萩原二人の言い争いの、きっかけは分らなかった。室生さんは「我が愛する詩人の伝記」というのを、萩原、百田二家が亡くなってから後に『婦人公論』に連載したが、その中で百田さんは鋭い批判家で、どんな美人にも難癖をつけるようなところがあった、と書いているが、それは適評であった。百田さんは溺れるということのない人であり、自分を棄てるということもなく、それがつまり詩人としての弱点でもあったようだ。百田さんは話が上手で、人見知りすることなく誰とでも交際したが、決して人に譲らなかった。そして人に譲るまいとすることで敏感だった。
 萩原さんが低い声で何か言っていたようだったが、突然百田さんが、声を高くして言った。
 「そりゃ萩原君はもう事を為した人だ。僕はこれを否定しようというのじゃない」
 そのあとの言葉、またその前の言葉はもう忘れた。この言葉も大体からいう意味であったが、正確とは言い切れない。私がその意味をはっきり覚えているのは、前号に書いたこと、即ち昭和四、五年の萩原朔太郎は詩人仲間で決定的な仕事をしたと見られていたこと、それに対して百田さんの詩境涯の不安定さからの反撃がそこに漂ったからであった。この場面の一年前、昭和三年に第一書房から萩原さんの全詩集が出て、それには初期のものから、後期の代表作「大渡橋」までが入っていて、立派な本だった。
 私はそこにいたたまらないような気持がした。萩原さんはよく聞きとれぬ声で何か口の中で言い、室生さんは沈黙した。室生さんは小説家として生きていたから、この二人の言い合いから立ちのくこともできたし、またその座の主であった。もう一度書くが、このとき萩原四十四歳、室生四十一歳、百田三十七歳である。百田さんは頭の切りかえの早い人であるから、この場合も言葉が鋭くなったのは一瞬のことで、間もなくふだんの調子に戻った。若い文士が先輩に初めて逢った場面はよく覚えているものである。』

伊藤整が語る室生犀星と萩原朔太郎3へ続く

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