伊藤整が語る室生犀星と萩原朔太郎3

伊藤整の『我が文学生活VI』より「犀星と朔太郎の思い出」を下記の『』内にて引用しております。また、萩原朔太郎を研究する時は、どうしても本人の著作かお弟子さん関係、北原白秋、室生犀星関連の書籍ばかりに眼を通しがちだと思います。その点、伊藤整のこの随筆は当時の詩人達からの立ち場で萩原朔太郎を捉えていて非常に興味深い内容となっていたと思います。では、本コラムも今回が最後になります。おつきあい下さった皆様方、ありがとうございました!室生犀星、萩原朔太郎の研究の一助になれば幸いです。

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『室生さんは、そういう空気の漂ったあとであったせいか、戯談を言った。室生夫人はその頃元気で、大柄な太った、よく笑う人だった。小柄な室生さんよりも多分一寸か二寸は大きかったろう。その奥さんが茶を持って室へ入り、出て行ったとき、わたしはあの大木にとまる蝉のようなものじゃ、という言い方をした。また、この頃は堀辰雄が作家として世に出て間もない頃だった。掘君の「不器用な天使」が『文芸春秋』に載ったのは、昭和三年で、彼はまだ東大に籍があった。私たちのジェネレーションで一番早くそういう雑誌に書いたのは掘君だった。
 室生さんは堀君のことを弟子のように、愛情をこめて語った。少し前に堀辰雄がやって来て、夜になったか雨が降ったかしたので、自動車をたのんでやった、という話であった。そのときの堀辰雄が恐縮もせずに乗ったことを、「あれはそのとき黙って乗って行ったが、そういう所まで堀も来たんじゃ」というような言い方をした。彼はものになったし、なったことを本人も心得ている、というような言い方であった。
 またそのとき室生さんは、牧野信一と言い争ったことを言った。牧野信一は室生さんより四、五年の後輩になるであろうか。この当時は牧野さんはやっぱり大森にいて、言わば不遇な状態にあり、しかしあの傑作「鬼涙村」の一連の作品を書く直前にあったのだと思う。そして牧野さんは酒の上の激しい人だったようだ。室生さんも酒は愛したし、百田さんの話によると、銀座あたりではよく飲んでいたらしいが、しかし家庭を飲酒の巷とはっきり区別して、庭を愛し、陶器を愛し、家庭での静かに澄んだ気分を乱されたくない人だった。そのちがいが分るような話である。
 牧野さんが室生さんの家へ酔って来て、酔った勢いで何かものを言った。そのとき、
 「わたしは、牧野信一輩とはつき合わんと言って、彼を突き出してやった」と室生さんが言った。
 萩原さんは、詩でもエッセイでも大変鋭い人であるが、その鋭さは現実の生活と歯車が合わず、日常生活では言葉もはっきりせぬ、間の抜けたような人だった。この人は自分の感性を文章の中でだけ生かしていた人であった。しかし、室生家でこの人を見た頃、私はそのことがよく分っていなかった。

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 私はその頃もう詩を書くことをやめかけていたけれども、そして私とほぼ同時代の「詩と詩論」系の若い詩人たちはダダイスムやシュル・レアリスムの詩を紹介し、詩の書き方もそれ等を追い、『詩と詩論』の代表者だった春山行夫、北川冬彦君たちは、萩原さん的なものを越えることを目標にしているのを知っていた。私はその人たちと交際があったけれども、萩原さんが近代日本の最大の詩人であるという考を棄てなかった。
 百田さんの話によると、萩原さなんは室生さんの所で私の詩集(この時の二年ほど前のもの)をぱらぱらとめくって、「あ、これは僕の影響がある」と言ったそうである。
 私は萩原さんに個人的には近づかなかった。あんな偉い人のそばでは、自分を生かせるものでない、と私は思っていた。
 この室生家の場面から一年ほどして、私は新宿の四谷三丁目、大宗寺の前のあたりを、あるときステッキをついて歩いていた。向うから萩原さんが来て、しばらく立話をした。萩原さんは、
 「東京もステッキを突いて歩けるようなところはなくなったね」と言った。
 皮肉でも何でもなく、むしろ話題に困ってのにぶい言い方だった。私は自分がステッキを使いこなせないのでなく、なるほど、そういう町がないのだな、と気がついた。そして私は萩原さんと別れた。そういう年代では街上でその人に逢うということすらが事件であった。』

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