伊藤整が語る小林多喜二と本庄陸男2

昭和38年12月26、27日付けの「北海道新聞」に掲載された、伊藤整の「小林多喜二と本庄陸男」との思い出を以下の『』内にて引用しております。また、全2回のコラムです。北海道文学ならびに、小林と本庄の研究の一助になれば幸いです。

『私は昭和三年から上京していたが、昭和五年ごろ、偶然、高円寺の喫茶店で、当時彼とコンビで『戦旗』の仕事をしていた画家大月源二と彼が一緒にいるのにあった。彼はなかなか元気で、その日色々なことを話した。文学論めいたこともいい、自信に満ちていた。
 大正十年ころから昭和初年にかけての小樽と札幌には、いろいろな文学上の芽ばえがあり、小林多喜二の加わっていた『クラルテ』とか『北方文芸』のほかに、私が友人と出した『青空』とか『信天翁』という雑誌もあり、文学上の先輩も多かった。古い人では織田観螢、遠藤勝一、歌人としての大熊信行、並木凡平、山下秀之助その他多くの人がいた。まだものは書かなかったが当時札幌に島木健作もいたのであり、また後には書くことをやめたが、武田選とか平沢哲夫なども才能のある人々であった。
 そういう文学的風土のなかから小林多喜二が出て小説家になったのである。彼をただプロレタリア文学の作家として扱うことは必ずしも彼の全体を語ることにならない。たまたま彼がそういう思想の線でその文学的才能を伸ばしたのだ、と私としては考えたいのである。
 文学史の上には、いろいろな政治的立ち場をもった文士がある。西洋では「ガリヴァーの旅」を書いたスウィフトや「神曲」を書いたダンテなど、いずれも政治上の主義主張をもって文学を戦いの具とした戦闘的な文士であった。だが時がたって、彼らの政治的立ち場の意味は失われ、作品のみが純粋なものとして残ったのである、だれが今日「ガリヴァーの旅」や「神曲」を政治文学だと言うであろうか?
 私は必ずしも日本の近代のプロレタリア文学の本来の意味を否定しようとするのではないが、時の経過とともに、その主題主張よりも作品の純粋な文学的勝ちが、作家たちの位置をきめるようになることは争われない。

 いま、小樽に小林多喜二の碑が建ち、当別町に本庄陸男の碑が建つというときに当たって、私は、本紙の読者のなかには、必ずしもこの二人の作家の思想的立ち場にくみしない人があることを知っている。私はこれを憂うるという訳ではないが思想的立ち場において全く違っている私自身がこのささやかな建碑運動を支持することの理由を、公的な意味と史的な意味とにおいてここに述べたのである。
 私は文芸の畑では理屈屋をもって目されている人間なので、実はここに書いた以上に、小林や本庄の文学についての支持の理論を持っている。文学というものの本質とか、その正義を追求する性格とか、当時の特殊な日本の社会の条件とかいうことについてであるが、それは一般の読者にはわかりにくいことでもあり、誤解のもとともなるであろうから、ここには省略する。
 ~中略~
 多喜二のことを書きすぎて、本庄君のことがあとまわしになったが、本庄君についても事情は同様である。本庄君もその系統から言えばプロレタリア文学系の人である。彼は当別に生まれ、北見で育ち、カラフトにも住み、上京して青山師範学校にはいり、教員をしながら小説を書きはじめた。昭和十年ごろ、左派の文学運動が弾圧によって終わってから、私は偶然彼と同じ町内に住み、行き来するようになった。
 私は彼と同年の生まれであり、同じ北海道出身者であるから、旧知の人のように親しくなった。静かなもの言いの人で、考え方が清潔であり、ユーモアもあり、実に好ましい人であった。昭和十四年に胸をわずらってなくなったが、その直前に完成した「石狩川」は、彼の郷里当別を中心とする開拓当時の移住者の苦闘を描いた長篇である。これは彼の予定した大半の前半であるらしく、その続編を彼は予定していたのだが、ついにそれを書くことができずに終わった。~中略~
 本庄君の場合は、その代表作が当別町そのものの成立史なのであるから、いっそう当別町にとっては縁が深いといわなければならない。彼は死ぬ前、半年ぐらいまで、執筆にあきると、四、五丁離れた私の家へゆっくり歩いてたずねて来る習慣があった。何も用はないのだが、私のへやにはいり、柱にもたれて静かに雑談をした。それはあたかも、同じなまりの言葉で、同郷、同年の文士なる私と雑談することを楽しみとしているかのようであった。』

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