若園清太郎が語る坂口安吾2

1976年に(株)昭和出版から出された、若園清太郎 著「わが坂口安吾」には、坂口安吾を中心として、安吾に関係のあった文士達の姿が、当時バルザックの研究家であり、多くの文士達と交遊のあった若園清太郎が親交を思い出しまとめた本です。以下、『』内の文章は、左記の本からの引用になります。坂口安吾の研究の一助になれば幸いです。

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安吾はアテネ・フランセ在学時、「言葉」を創刊しますが、二号まで出したところで、きだみのるの口添えで岩波書店から「青い馬」と改題した上で発刊することになりました。ちなみに、安吾はこの時の事を、葛巻氏が芥川氏の著作権をタテにとり、圧力をかけて岩波に承諾させたと「世に出るまで」に書いておりますが、正しくはきだみのるが岩波と交渉しまとめた案件だそうです。

『さて、『青い馬』創刊号は颯爽と世に出た。~中略~岩波書店発行ということが注目された。坂口安吾は創刊号で「ふるさとに寄する讃歌」を発表し、第二号に「風博士」を書いて牧野信一に認められた。認められたというより、溺愛されたといっても過言ではない。これ以後、安吾は高輪に住む牧野信一の家に足繁く出入りし、師事するようになったが、続いて第三号に「黒谷村」を書いて、牧野信一ばかりでなく、多くの文壇人から激賞され、間もなく、『文藝春秋』に「海の霧」を書いた。』
 ~中略~
 安吾は牧野信一に師事した、そのころ彼と会うと牧野信一のことが必ず口から飛びだすほどだった。当時の牧野信一と安吾のことをよく知っていた河上徹太郎は、「坂口安吾追悼」(『文藝』四月号)のなかで次のように語っている。
 「彼と牧野信一との出会いは、美しい文学的事件であった。私はどっちが先に近づいたのか知らないが、あるとき牧野さんが安吾の『風博士』という作品を美しい文章だといって口を極めて激賞していると、いつの間にか安吾がいつも数人の青年と牧野家の茶の間の酒宴の常連になっていた。牧野家の清貧のうちにも酒に濁った家庭生活は、大正時代の文士のこの種のデカダンス最後の王者の称号を唱え得るものだと私は思うのだが、安吾の無一物のうちに放浪する生活振りは、気質的にもこの家風によく合う筈のものである。然し二人が結ばれたのは、そんな性格的な親近さよりも、文学的な認め合いからなのである。それも、まるで二人の文章の中に流れる血液が本能的に牽引し合うといった形のものであった。私はこんな純粋な、殆ど肉体的とも形容し得る文学による人間の結びつきを、外の如何なる文士間の交わりの中にも知らない。」』

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安吾と牧野信一との仲睦まじい様子が、河上徹太郎氏にとっては非常に美しい交流を響かせているように見えたのでしょう。河上氏のこの文章も清々しく美しい音色を奏でていますね。

『昭和九年一月元旦、安吾の旧友、中島萃(あつむ)が狂死した。長島は『言葉』および『青い馬』以来の文学友だちの一人であった。安吾にとって長島は文学上のライバルであり、安吾の青春時代、精神史の数頁をいろどった人物といっても過言ではない。~中略~葬儀は翌二日に自宅で行われたが、『言葉』同人のうち数人が参列した。松の内が過ぎて間もなく安吾からハガキが来て、「長島の遺品(蔵書)を『言葉』の同人たちに形見わけするので次の日曜日の午後一時に長島家に参集されたし……」と通知があったので数人が集った。~中略~私がもらったものは、フロイトの精神分析書『レオナルド・ダヴィンチ』、ヴァレリー詩集他三冊であった。家に帰って、その五冊の原書をパラパラとひもといていると、フロイトの本の裏表紙の余白に次のようなエンピツで書かれた落書きがあった。
 「安吾はエニグムではない」、「安吾は死を怖れている。然し彼は、知識は結び目を解くのでなしに、結び目をつくるものだと自覚しているから」、「苦悩は食慾ではないのだよ、安吾よ」とあった。数日後、私は蒲田矢口町の安吾の家を訪ね、この落書き付きのフロイトの本を彼に進呈した。安吾はこの落書きを見て「まったく意味が分らない」としきりに呟いていた。
 長島が本に落書したこれらの言葉は、安吾を相当に悩ませ、《解けぬ謎》として永らく安吾の脳裏に刻みこまれていたためか、後年、「暗い青春」(昭和二十二年六月『潮流』)のなかでも、このことを回想して書いている。
 そして、私はこの落書した本を安吾に渡したことを後悔することが、たびたびであった。』

肉体が強く生き生きとしていた安吾に、暗く死の影を背負った長島氏がお互い若さ故に強く絡み合い、いかに心に影を落としたのかが分かりますね。

若園清太郎が語る坂口安吾3へ続く

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