若園清太郎が語る坂口安吾3

1976年に(株)昭和出版から出された、若園清太郎 著「わが坂口安吾」には、坂口安吾を中心として、安吾に関係のあった文士達の姿が、当時バルザックの研究家であり、多くの文士達と交遊のあった若園清太郎が親交を思い出しまとめた本です。以下、『』内の文章は、左記の本からの引用になります。坂口安吾の研究の一助になれば幸いです。

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『坂口安吾と中原中也に関した刊行物のなかに、「『紀元』は坂口安吾の主宰による同人雑誌」と注釈されているが、これは大きな間違いで、同誌は経営もふくめた編集同人制をとり、この責任ある仕事は山沢種樹、隠岐和一、若園清太郎の三人が主として担当した。』

どうやら、若園清太郎氏がこの「わが坂口安吾」を出版しようと考えた一端を垣間見たように感じました。確かに、ご自分が一生懸命やっていたことを、仲が良かったとはいえ坂口安吾に評価がいくのは腹が立ってしょうがなかったと思います。

『昭和十一年一月になってからの気候は異常な寒波に見舞われ、しばしば雪の日が続き、安吾はその寒さに参った。というのは、安吾は火鉢で暖をとることができない性分で、これは学生時代にしめきった部屋で火鉢に炭火を長時間もやし、部屋の換気をしなかったため、一酸化炭素に中毒し、かなりひどい症状になった。それ以来、火鉢を使わず厚い綿の入った丹前にくるまって寒さをしのぐ習慣がついていた。(この習慣はかなり永く続き、彼の晩年まで後遺症となっていた。だから彼は冬に他所(よそ)の家を訪問したり、あるいは何かの会合で料理屋の座敷に長時間いたりすることが苦手だった。私が麹町番町に住んでいた時、彼はたびたび訪れ、泊っていったが、安吾の炭火嫌いを知っていた私たち夫婦は、安吾が寝る部屋には火鉢を置かず、私が使っていた丹前と毛布を用意しておくとそれにクルマって、眠る前に本を読んだり原稿を書いていたりなどしていた。)』

坂口安吾は、どてらを愛用していたことで有名ですが、実はこういった理由から冬は丹前(別名・どてら)を着用しておりました。はんてんより着丈が長く、当時においては冬の寒さを乗り切るための必需品の一つでした。
また、若園清太郎氏による安吾の炭火嫌いは別のページにも詳細に記してあります。後年、炭火嫌いから冬の寒さをしのぐためにむちゃをした事が分かります。以下、下記の出来事は昭和二十四年の冬、安吾はこの時、四十三歳でした。

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『昭和三十年頃からはガス暖房器、電気コタツ等が普及して、今やどの家々でも暖かいが、昭和二十四年ごろといえば未だに暖房器具は実用化に至らず、諸物資が不足していて、室内暖房どころではなく、火鉢に炭火、炭火を入れたコタツが唯一のものだった。
 安吾は炭火が大キライである。二十歳ごろ閉めきった部屋で、炭火による一酸化炭素中毒にやられて以来、彼は炭火恐怖症になっていた。
 寒さを凌ぐために、彼はアルコール類を飲み続け、例によって睡眠薬と覚醒剤を多量に飲んだ。』

あの時代に炭火を使わない暖房器具が普及していたら、安吾も冬の寒さに耐えるために、ここまで無茶な事はしなかったのではないかと考えると、胸が詰まる思いが致します。彼が生きるためにとった手段が、逆に彼の人生を短くしてしまった事。それが現代の我々には、容易に分かるだけに切なくなりますね。
また、安吾の飲酒については若園清太郎は下記のように書いています。

『終戦になってから安吾をよろこばせたのは、たとえヤミ酒とはいえ、メチール・アルコール混入の危険はあったが、カストリ焼酎や得体の知れぬウィスキーが飲めることだった。武田麟太郎がメチール・アルコール入りのヤミ酒で亡くなったことを知って、「武麟さんは残念なことだった。俺のメチール・アルコール鑑定法を知っておればね」と残念がるのだった。「アルコール類を飲む時はね、利(きき)酒の要領で、ちょっと口にふくませ、舌を巻いて口の中の上アゴでなでてみるんだ。ぬるりとする感触があれば危い。サラリとした感触なら絶対大丈夫!」というのが彼の鑑定法だった。』

終戦になり、少ない物資でいかに楽しく生きようかとする安吾の心持ちが明るいエピソードですね。現代では当たり前とされる娯楽も無く、誰しもが精一杯だった時代に、お酒一つでスリルを楽しんでいたようです。

若園清太郎が語る坂口安吾4へ続く

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