小林秀雄と中原中也

非常に個人的な見解における、中原中也が生前評価されなかった理由について以下に言及しております。また、この私的見解につきましては、小林秀雄と中原中也、両名の名誉毀損などを目的としたものではないことをあらかじめ明記しておきます。あくまでも、当時の時代情勢や社会規範を元に推察した上での個人的な見解になります。

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生前、中原中也の詩が評価されなかった事について考えた時、参考にしたのが若園清太郎が「わが坂口安吾」の中で当時、同人雑誌の作風に合わない「同人雑誌ズレ」を抱えた作家として中原中也を上げています。
また、1928年(昭和3年)頃から政局は大きく乱れ、世界恐慌が起ったのもこの年でした。日本では大学を出ても就職することができず、できても大変薄給でした。そういった世情の不安定さと風潮の中では評価しにくい作風であったこと。
それ以外では、小林秀雄の「Xへの手紙」(Xへの手紙は小説というカテゴリになっておりますが、実質、中原中也に対して出された無かった手紙といった側面があります。)において小林秀雄が誌面上で暗に中原中也に対して告白をしてしまった事により、中原中也は同性愛者であるという、当時としては非常に厳しいレッテルを貼られてしまったのではないか?と考えております。そのため、評価されなかったのでは?

以下、『』内の文章は小林秀雄「Xへの手紙」より引用となります。

『君くらい他人から教わらず他人にも教えない心をもった人も珍しい。そういう君が自分でもよく知らない君の天才が俺をうっとりさせる。君の心のこの部分が、その他の部分とうまく調和しなくなっている時、特に君は美しい。~中略~
 俺は別に君を尊敬してはいない、君が好きだというだけで俺にはもう充分に複雑である。』

また、「Xへの手紙」が中原中也宛であるという根拠は、以下の小林秀雄の年譜を一読後、下記の「Xへの手紙」からの引用箇所を読むと納得がいくかと思います。

1925年(大正14年) この年の4月、東京で小林秀雄(23歳)は5歳年下の中原中也と出会う。中原はこの時点で、長谷川泰子と同棲しており二人とも小林秀雄と面識を持つ。同年11月、小林秀雄は長谷川泰子と同棲を始める。
1928年(昭和3年) 3月に東大を卒業した小林秀雄は、同年5月に長谷川泰子と別れる。この時、小林秀雄は26歳、中原中也は21歳。
1929年(昭和4年) 4月、懸賞評論にて二席に入選。評論家としての道を歩き始める。
1930年(昭和5年) 4月から文藝春秋に一年間文芸時評及び作家論を掲載し、評論家としての地位を確立。この時、小林秀雄は28歳、中原中也は23歳。
1932年(昭和7年) 4月に明治大学文芸科講師として就任。9月に「Xへの手紙」を発表。小林秀雄30歳、中原中也25歳。

『突然だが俺はあの女とは別れた。結局はじめから惚れてなんぞいなかったのだ、と俺も人並みに言ってみたいものだと思う。~中略~俺としては何かしら後悔に似た感情が起ったと思った時には、既に充分惚れていたと言った方がいい。別れた今でも充分に惚れている、誰でも一ったん愛した女を憎む事は出来ない。尤(もっと)も俺もようやく合点した、女との交渉は愛するとか憎むとかいう様な生易しいものじゃない。
 俺は君に自分と女とのいきさつを報告する気はない。』

『女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪(こしゃく)な夢を一挙に破ってくれた。と言っても何も人よりましな恋愛をしたとは思っていない。何も彼も尋常な事をやって来た。女を殺そうと考えたり、女の方では実際に俺を殺そうと試みたり、愛しているのか憎んでいるのか判然しなくなって来る程お互の顔を点検し合ったり、惚れたのは一体どっちのせいだか訝(いぶか)り合ったり、相手がうまく嘘をついて呉れないのに腹を立てたり、そいつがうまく行くと却ってがっかりしたり、──要するに俺は説明の煩(はん)に堪えない。』

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とあります。それに加え、中原中也が亡くなって以降に執筆された「死んだ中原」、「中原の遺稿」、「中原中也」のそのどれもが非常に深い悔恨を伴った文章を寄せています。女性一人を取り合ったからにしては悔悟の念が深く、読んでいて疑念を感じます。
それに加え、中也自身は後に長谷川泰子が他の男性との間にもうけた子に命名したり、可愛がっているため(この時点で、かなり中也の人間としての器の広さを感じさせますね。)そこまで気に病む必要が無いように感じられます。
であれば、それ以外の理由から悔悟の思いが深かったのだと考えた場合、やはりそれは誌面上において名前は出さなくても、暗に告白したことにより、告白した小林秀雄自身ではなく逆に中原中也の立ち場が悪くなったことからくる悔いではないかと推察しました。

また、この考えを裏付けるものとしては、以下、『』内の文章は若園清太郎「わが坂口安吾」より引用しました。

『『白痴群』の存在を知ってはいたが、私は《白痴群》という名前に「何というふざけた名前をつけたんだろう」と思い、この名づけ人は中也ではないかと想像していた。というのは、アルチュール・ランボオとポール・ヴェルレーヌが同性愛の嫉妬からピストルで決闘した偏執病的な狂気……中也にもそのような狂気があったのではないかと私は思った。』

白痴群・・・1930年(昭和5年)に創刊された同人雑誌。参加者は小林秀雄・富永太郎・永井龍男・河上徹太郎・中原中也

若園清太郎は小林秀雄や坂口安吾、中原中也自身とも面識があり、彼等が参加した雑誌『紀元』の編集及び執筆をしていました。
中也とのつき合いが浅い彼が、1933年(昭和8年)の時点で中原に対してそのように思っていたのですから、当時としては文士間では言わずとも何か伝わる部分があったのではないでしょうか?なお、小林秀雄が「Xへの手紙」を発表したのは前年の昭和7年9月のことです。
中原中也が少し荒れて、皆が彼を相手にしなくなった時期と「Xへの手紙」発表後とか重なるため、恐らく中也は正しく小林秀雄の「Xへの手紙」を読んだのだと思います。
また、当時は今ほど同性愛に対して理解は無く、一度そのようなレッテルを貼られてしまうと村八分とまではいきませんが、文壇においては静かな冷遇があったのではないかと予想されます。そのため、中也は1933年(昭和8年)12月に母親の意向を受けて素直に結婚したのだと考えられます。
当時において、自身が同性愛者で無い事を証明するためには、結婚するより他はないからです。それに加え、ずっと山口県に居た家族はまさか中也にそのような疑惑がふりかかっているなど、考えもつかなかい上に、早く身を固めて欲しいという思いが幸いしたのではないでしょうか。
ちなみに、小林秀雄自身も中也が結婚した翌年に結婚しています。
結局、中原が鎌倉に偶然引っ越して来たことにより、同じく鎌倉に住んでいた小林秀雄との交流が復活し、中也が亡くなる3週間前には詩人の魂である詩を彼に託すなど、小林秀雄を許していなければできない行為をとっています。
逆にここまで許されてしまった小林秀雄は、辛かったのではないでしょうか?
中也が残した遺稿には、彼とのいきさつなどは残っておらず、ただ「口惜しき人」とだけあったのでは、彼も最早、気持ちの持って行き場が無かったと思います。
小林秀雄は結局、中原の言葉通り、「在りし日の歌」を出版し、最後には、中也の故郷である山口市に詩碑を建てます。
どうしても、永遠にとまではいきませんが彼の詩を残したいと考えたのでしょう。

以上になりますが、中原中也が生前文壇にて評価されなかった一側面についての私見でした。ここまで読んで下さり、ありがとうございました!

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