7/18雑記 坂口安吾の汚部屋はいつから始まった?

林忠彦が坂口安吾の汚部屋を撮影したことで、日本における写真の歴史においても、文豪としても非常に強いインパクトを残すことになった彼ですが、その汚部屋の歴史は一体、いつから始まったのだろうかと常々疑問に思っておりました。今回、1976年に(株)昭和出版から出された若園清太郎 著「わが坂口安吾」を拝読し、やっとその答えに当たったので嬉しかったです。まずは、安吾がかつて東京で住んでいた住宅がどんなものであったか、以下、『』内の文章は、左記の本からの引用になります。

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『坂口献吉追悼録(安吾の長兄)のなかに、献吉兄が親戚の誰かに出された手紙(昭和二十八年六月四日付)の一節に「……次にこんど安方町の家を処分する事にきめました。何しろ古い家で非常にいたみ、修繕するにも莫大の費用を要しましょう。~後略~」とあるように、この安方町の家は昭和初年に建てられたものらしく、建築様式はいわゆる”文化住宅”で玄関わきが洋風の応接室になっていて、二階建九室あり、安吾の部屋は洋風板の間六畳だったが、寝台は押入れにはめこんで入れるようるになっていた。
 戦後三十年の現在は、建築様式がすっかり変り、ダイニング・キッチンだとか応接室などもすべて洋風になり、ベッドも大いに普及したが、前記した坂口家の安吾の部屋は、当時としては新しい設計様式で、われわれ文学青年にとってもものめずらしく』

何となく、安吾は畳に文机。うずたかく積もったゴミの山。DDTがまかれた万年床。といったイメージがありましたが、これを読むと(作中の当時は安吾がアテネ・フランセに通っていた時期で、昭和3年のことです)板間に押し入れに備え付けのベッドとは、なんだか少年の夢が詰まったようなお部屋に住んでいたことが解りますね。
また、上記以外で安吾の部屋に関する記述があったので引用します。以下の対談に登場する村上は、種田山頭火と中原中也の研究で有名な村上護のことです。

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村上 新潟の話のついでにですね、「日本文化私観」のなかでも書いている”家について”という一節が気になるのです。家というものはたった一人で住んでいてもいつも悔いがつきまとう。叱る母もいなく、怒る女房もいねいけれども、家へ帰ると叱られてしまうとかいう。ちょうどお母さんが亡くなられた直後に「日本文化私観」を書いたから、そういうことを書いたと思うんです。安吾の家に対する意識というのはどんな具合だったのでしょう。
若園 私、蒲田に行きましてね、お母さんがおられたんです。下の部屋でね、広い家でしてね、安吾は末っ子の方でしょ。
村上 十三人の下から二番目ですね。
若園 (安吾の家の写真を見せて)これが坂口家です。~中略~安吾はどこにいたかというと二階の方にいたんです。安吾の部屋は洋風で寝台が引き出されるようになっていたんです。そこを仕事部屋にしていたようです。ごみだらけでね。書斎にしていたようです。だから、我々、『言葉』や『青い馬』の連中が遊びに行くと、みんな寝台つきの部屋にね、~中略~二階は客間だったんじゃないかと思いますね。仕事場にしたのは戦後ですね。ですから大抵お母さんは下にいて、遊びに行くと二階へ上ってしまうんですね、お母さんは下で針仕事なんかをしていましたね。割に家は簡素主義ですね、いわゆるガラクタ主義ではないですね。~中略~ですから、余りガラクタには、家具調度といったものには……。
村上 無頓着なんですね。
若園 ええ、無頓着なんです。
村上 だから、空と海とが自分の故郷だっていることになるんでしょうけれども。』

この対談を読むと、やはり汚部屋になり始めたのは戦後からのようですね!放浪癖があった安吾ですが、女性は家とセットのような存在だったので、それが嫌で一所に落ち着かず、放浪していたのでしょうか?

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