杉山平一が語る織田作之助4

今日は8月7日で台風が日本を縦断中ですね。織田作之助にとって、8月6、7日は忘れがたい日なのです。織田が妻の一枝を亡くしたのは、8月6日で夜に入ってから台風が直撃。葬儀は7日に営まれ、風雨の激しい中、出棺されました。この事は、織田の日記に詳しく書いてあります。まるで、今日のような日に織田は涙を流し日記に於いて「妻なし子なしやるせなし」と綴りました。さて、長くなりましたが杉山平一が語る織田作之助も今回で最後になります。ここまでおつき合い下さった皆様方、ありがとうございました!

以下、下記の『』内の文章は六月社書房より1971年に限定500部で発刊された「織田作之助研究」から現代語訳した上での引用になります。織田作之助の研究の一助になれば幸いです。

『「わが町」の主人公ベンゲットの他吉に口ぐせのようにいう「人間は働くために生れてきたのや」「人間は身体を責めて働かな嘘や」「文句いわずにただもうせえだい働いたらええのや」どの主人公もそうだ。一人としてえらくなろうとか、幸福になろうとか、理想につかれるという者がいない。ただ自分の現在を見ている。
 従って、主人公は商売の間を発展しない。商売は羅列的である。主人公達はその間に漂って行く。明治や大正や昭和のうつり行きはあるけれども、それは歴史的ではない。やはりあくまでも地理的なひろがりをもって印象される。
 第二の短篇集の表題が「漂流」であるが、よくその間の性格を示している。「雨」の主人公、「二十歳」の主人公「お君という女はよく性格が出ていると思うが、彼女の口癖は「私でっか、私は如何でもよろしおま」である。彼女の運命をひっくりかえすようなときでも、この言葉で逃げてしまう。「天衣無縫」の主人公でも「二十歳」の野崎でも、何か周囲に身をまかせてずるずるずるずる引きずられ漂って行く。
 しかもこれが織田の一種の自虐であることがよくわかるのである。潜水業や俥屋のような仕事に彼が並々ならぬ意気込を示すのも、自分をいじめるようなところ、それに耐えるところが気にいるのだと思う。「わが町」は「自らを責めて働かな嘘や」という他吉という主人公と作者の世界観とが不即不離の関係にあって、切々と打つところがある。

 彼が主人公達を可愛がらぬ、いじめ抜くことは、目標を失っていた、その年代の内攻性の然らしむところであるが、その故に自分はいつも、呑気なユーモラスな情景などには余計一つの哀傷を感じ、読みとるのである。「わが町」で一年生の入学式に名前を呼ばれて返事するくだりなどもそうである。「許嫁」はその面をよく出した好短篇である。お芳という女中が良いなずめの死を弔いに行って暗い露路へ出て行くまで、さりげないが哀しい。
 「西鶴新論」というのは、西鶴に対する意見としても、織田の文学観を表明するものとして非常に面白いものであるが、その中でスタンダアルを「何事も信じない人」とし、西鶴になぞらえているが、そして自らになぞらえていると読めるのだが、この僕達の世代をとらえていた、かかる気持は、彼の文学そのものと同じく、主張されてはならないと思う。無思想という思想があるではないかという「主張」は自己撞着におちるのだから。
 その世代は溺れない、酔ったりできない世代であった。彼が潔癖に具体的な数字や地理で規定して行こうとする気持はこの意味からいってもよくわかるのである。「わが町」の婚期のおくれた娘が泣くところも、かまどの煙にむせているように誤魔化して書いてある。そのように、本当の主張や悲哀がユーモラスな何気ないところによくされていると思う。
 のびのびした目のあらい書きっぷり叙述の進め方をして、そのしめくくりにいつも詩のようにこまかい描写を突然入れてあったりするが、そういうところに思いがけなく、作者の真情が出ていたりするのを見る。
 織田作之助は大阪を題材に新しく世界をうちたて、それは誰の追従でもないし、誰も続くものさえない境地にある。(大阪文学昭和十八年七月号)』

羅宇しかえ屋・・・羅宇とは、キセルの火皿と吸い口を繋ぐ管のこと。この部分は当時は竹でできていた為、長く使うことができず途中で交換する必要があった。そのための羅宇しかえ屋。現在、羅宇の部分は銅製である。

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