最晩年の織田作之助2

1では、小笠原貴雄が妖婦以外の作品を遂に織田作之助に書いて貰うことができなかった、と書いておりましたが昭和22年に風雪社から「妖婦」というタイトルで妖婦以外の織田作之助の作品をまとめた上で、作品集を刊行しております。収録された作品は「二十番館の女」、「奇妙な手記」、「見世物」、「写真の人」、「湯の町」、「鬼」、「漂流」、「昨日、今日、明日」からの「妖婦」が掲載されております。
以下、下記の『』内の文章は六月社書房より1971年に限定500部で発刊された「織田作之助研究」から現代語訳した上での引用になります。織田作之助の研究の一助になれば幸いです。

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『織田さんの奇行に就いては前から柴田に度々聞いていた。放送局で猿飛佐助を放送した関係からある流行歌手と結婚し、その歌手の家に住んだ。所が織田作之助は生まれてから歯を磨いた事がないので恐ろしく臭い、おまけに好色で、昼夜を取り違えている作家生活なので、とうとう歌手の所から飛び出しか追ん出されたのか、それからは京都の新京極の宿屋にいる、勿論、荷物も異動申告もおきっぱなし、というわけである。このあたりはいずれ柴田がくわしく書くであろうが、とにかく私と柴田が宿へ行ったのは六月の終わりの正午に近い頃であった。案内を乞うと恐ろしく肥って唇の真赤な女中が出てきた。私と柴田は早速女中に全身生殖器という仇名をつけた。後で何かの拍子にこの言葉が出ると、「ああ、あのでぶか」、と織田さんも即座に判った様子であった。
 暑苦しい応接間で待っていると、寝巻であろうよれよれのゆかたで、ばっさりと長髪が肩までたれかかり、眼やにをいっぱいにつけた寒竹のようにひょろ長い男がのそっと這入ってきた。織田さんである。最初はひどく無愛想だった。しゃべると歯が真黄色で、煙草を唾でベトベトに濡らしながらもみ潰すのが癖であった。東京の出版屋は部数が多くないので、とか、世相、競馬は昨日八雲にきまった、というような話をした。結局私の方へ妖婦を貰う事になり、一緒に外出する事になった。
 宿を出るとすぐに新京極の闇市である。闇煙草屋が軒をならべ、東京の倍も高い食物屋が、東京から来た私の眼を奪った。むし暑い京都の夏が始まりかけている。焼けない京都の風情もこの闇市は支那の薄汚い一場の風景に圧倒されている。歌手の所を飛び出して着たきり雀の織田さんは薄茶の合服しか持たない、暑いと見えて上衣はぬいで肩にしょっている。ちょんとのせた登山帽の下からバサバサの長髪がはみ出している。普通の男より首一つ高いので、そんな異様な風態は恐ろしく目立った。三歩も歩かないうちに誰かに呼びかけられる、なかなか進まなかった。そのうち向こうから洋服のすそをけちらかすように歩いてきた女が、「あら先生お出かけ?」と立止った。
 「煙草、あったか?」「それがえらい苦心や」、女はそう言って手さげをひろげてみせた。

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 「すまんすまん飯食いにゆかんか」と織田さんは女を誘った。柴田も知合らしく挨拶した。……ダンサーだよ……柴田はそんな事を囁いた。他に特徴はないが、とにかく顔の長い女であった。
 帰京してから何かの会で石川達三氏にこの話をすると、「俺の面より長いか?」と、石川氏はぬっと顔を出されたが、確かに石川さんの顔よりは長かった。大体、織田さんの顔が長いのだが、それよりは長いのだから相当目立つ、その上、猛烈な化粧をしているので行き交う人は一々ふりかえる程であった。
 翌日、原稿をまとめて貰うために又、宿屋へ行った。その日も「おいでやす」と全身生殖器が唇を真赤にぬってどったりとあらわれてきた。二階の少しも風の這入らない暑苦しい部屋で、今夜帰京する私に届けて貰うのだ、と織田さんは名代のヒロポンを注射した腕をもみながら「夜の構図」を書いていた。
 傍らで昨日のダンサーが、せっせっと新聞小説「夜光虫」の切りぬきを作っていた。「これは秘書だよ」、織田さんはそんな事を言った。その時私は何を言ったか覚えていないが、「君はこの女と俺と関係があると思うか、そんな観察の仕方では君は作家になれんぞ」、と言われた。私は苦笑しながらよくもまあぬけぬけと、思い、織田作でも多少は照れ臭いと感じるのかなアと苦笑した。』

最晩年の織田作之助3へ続く

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