最晩年の織田作之助3

今回のコラムの最後には昭和21年4月に雑誌「改造」に発表された「競馬」の元になったとおぼしきエピソードが含まれており、読んでいて興味深く感じます。小笠原貴雄は、競馬に入れ込む織田作を気ままに生きているように受け取っていますが、「競馬」を読むと精神的にはかなりギリギリの心持ちの主人公が描かれています。競馬をやる楽しさの裏側には、やはり精神的な痛苦がある程度はあったのではないでしょうか?

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以下、下記の『』内の文章は六月社書房より1971年に限定500部で発刊された「織田作之助研究」から現代語訳した上での引用になります。織田作之助の研究の一助になれば幸いです。

『私達がぼんやり待っていると、織田さんは素晴らしい猥写真を、それは三十枚一組で、四百円とかで手に入れたのだそうだが、とにかく素晴らしい猥写真を見せてくれた。顔の長いダンサーは熱心に眺めて批評をした。柴田は早速、これを複製して、風雪同人にくばるのだとはりきっていたが、どうやら織田さんが死んではお流れになったらしい。このような写真を平然と眺めていられる女も確かに織田作の操り人形の一人であろう。この顔の長いダンサーは私が帰京してのち、織田作の新しき女性をめぐって小説的雰囲気を作った事を、後で柴田の手紙で知り、絶対に関係はないよ、と否定した織田さんの言葉を思い出して再び私は苦笑した。
 新聞記者、雑誌記者、特ダネの某、地廻り、文学青年、ダンサー、女給、等が黄昏れて街へ出る織田さんの寒竹のようにひょろ長い姿の周囲へ何時となく集まってくる。この一団の人々に取り巻かれて首一つ長い織田さんは、煙草をベトベトに唾でぬらし、けッけッけッと笑いながらのし歩くのである。毎夜この一団は夜半まで、京都の盛り場をおし歩く模様であった。
 私が帰る時に、「友(井上友一郞氏)によろしゅう言うて……」と、織田さんは言っていた。東京へいらっしゃいませんか、と誘うと、「煙草も売っとらんようなとこ、俺行けん」、とにべもなく首をふり、「東京の作家は生活にかじりつきすぎとる、友も家族の事など心配せんと書かな不可ん」、と呟いた。

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 この意味はまだ私は井上さんに訊ねてはないのだが、織田さんのように生活も健康も全てを文学の中にぶちこんでいる作家は珍しく、何か鬼という感じがした。往年、宇野浩二氏が文学の鬼と言われていたが、織田さんなども確かに文学の鬼であった。批評、悪評はへとも思わない様子で「なあに一流の連中はちゃんと俺のこと認めとる」、とうそぶいていた。
 宇野浩二氏には師事していたらしく、私が帰京してから、宇野浩二氏からの手紙がうんとたまっとるが出版せんか、めんめんとしてお軽の手紙のように面白い手紙や、と便りを頂いたが、この話しは実現しなかった。
 秋になってから、突然、電報がきた。ウマハジマル、五○○○オクレ、オダサク である。私は驚天した。ウマ、とは勿論競馬である。私はたん息しながら、このように思いきり人生を享楽し、常識をふみにじってゆけたらどんなに愉しいであろうと思った。しかしこつこつ人生をふみ固めていく私などにはとうてい思い及ばない電報である。
 ウマハジマル、私はこの電報に織田作の面目が躍如していると思い、ふっとこの電報を受け付けた実直な郵便局員の顔を想像して笑い出した。』

最晩年の織田作之助4へ続く

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