最晩年の織田作之助4

本コラムも、今回で最後になります。おつきあい下さった皆様方、大変ありがとうございました。今回は、作中にて「死ぬる」という表現が登場しますが、これは執筆者である小笠原貴雄が山口県出身であるため、方言をそのまま書いたものだと思われます。意味は、死ぬ、または死ぬのか、です。

以下、下記の『』内の文章は六月社書房より1971年に限定500部で発刊された「織田作之助研究」から現代語訳した上での引用になります。織田作之助の研究の一助になれば幸いです。

『読売新聞にいる風雪同人の平山君が、誰か長篇を書く作家はおらんかなア、と弱っていたが、間もなく織田さんから読売へ書く、という手紙を貰った。関西の新聞には書き馴れた織田作之助も東京は初登場である、大きな期待のうちに、土曜夫人は如何にも織田作好みの派手なポーズで登場した。
 かつて京都で織田さんの周囲を取り巻いていた夜の仲間達がピチピチとはね出してきた。そうして織田さん自身も嫌いな東京へやってきたが、銀座裏の、夜の遊びには足場の好い宿屋であった。
 電報で私が訪ねていくと、織田さんはまだ寝ていた。読売文化部次長の藤沢さんが先客で、織田さんの連れの婦人は初対面の小柄な可憐な人であった。又、変った、と私は苦笑したが、凡そ一人一人極たんに変化してゆく好みは全然出鱈目であった。
「京都へきた時より大分好え男になったな……」、寝たまま織田さんはそう言い、「雑誌を始めたって?」、と起きてきた。風雪の事はまだ織田さんには話してない。
「どうして御存知ですか?」
「昨夜、友(井上氏)に聞いた……」
 そんな話しをしながら織田さんは起き上がると、丹前を羽織り、腕をもみながら、ヒロポンを注射すると、土曜夫人にかかった。続々と客がつめかけてきた。東京へきても京都や大阪と同じ生活である。午後になりますと、大勢で出掛けて夜半まで帰ってきませんの……私は外へ出ながら小柄なその婦人の嘆きに似た言葉を思い出して、あんな無理して好いんかなア、と呟いた。わアわア取りまかれながら小説を書き飛ばす、それが流行作家の生活なら、家も生活もふみにじる生き方より他に方法はないわけであった。

 その翌日、私が宿屋の二階に上がっていくと先客が二人あった。初対面の青山光二氏と、実業之日本にいる風雪同人の倉崎嘉一さんである。「ようー」と思わず倉崎さんに大きな声を出すと、「あの、昨夜、大喀血をしまして寝ておりますから……」、婦人に注意された。私は耳が遠いので声が大きい、思わず赤くなって頭をかきながら、「あんな生活をしていれば当たり前だよ」、と呟いた。婦人がさっと赤くなった。私はなんだか腹が立って倉崎さんと外へ出た。毎夜毎夜遊び歩き、そうしてそれをネタに小説を書き続ける、それはおのれの命をちぢめる事である。文学の鬼、再びそんな言葉が浮かんだ。

 東京病院の帰り、寺崎浩さんにあって、「織田作、今度は死ぬね、」と病院での直感を言うと、「織田作旅に死すか」、と寺崎さんは笑った。織田作、旅に死す……大阪で生まれ大阪を愛し、大阪を書き続けた織田作之助が嫌いな東京で死ぬる、しかしその方が、のんべんだらりと長生きしてるより小説的だな、と私は考えたりした。
 二、三日私は熱海へきた。私の方の「妖婦」も随分遅れていたが、やっと書店へ出た「世相」と「六白金星」を持ってきた。大阪の帰り、私は織田さんに貰った「青春の逆説」を読んで酷く興奮した記憶があった。赤と黒を読んで作家を志望した、と言われるだけに、青春の逆説にはジュリアンソレルの逞しさがみなぎっていた。一息に読ませる力を持っていた。しかし短篇は流石に三十五歳の年齢だけ貧しさがあり、世相と競馬が矢張り傑出していたが、土曜夫人や青春の逆説の鬼才は感じられなかった。
 私が襲い寝床に這入ると、女中が新聞を持ってきた。似もしない織田作之助の写真がのっている。死んだ……織田作旅に死すか……、と寺崎さんの言葉が浮かび、東京のあの汚い病院では、さぞかし死にたくはなかったろう、と心がかきむしられた。
 眠られぬままに、私はあれこれ考え続けていたが、ふと、東京で死んだ織田さんの心境を芭蕉の句に思い浮かべた。
 旅に病んで、夢は枯野を駈けめぐる。   (風雪22・8月号)』

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