徳田秋声が語る尾崎紅葉2

明治文豪伝なるものが明治40年に編纂されシリーズものとして出版されたのですが、その第一作目として、尾崎紅葉の逸話や人となりを聞き書きでまとめたものを含んだ本が出されました。その本に、徳田秋声も語り部として尾崎紅葉の思い出を語っております。今回の内容は、主に旅行や食、お子さん達についてとなっています。

スポンサードリンク

以下、『』内の文章は明治40年に文禄堂より出版された松原至文著「尾崎紅葉」より徳田秋声が語った「徳田秋声氏談」から現代語訳した上で、引用しております。

『ある時代には、発句の添削だの、序文書きだのいろんな事をなさってたのですが、それらは皆あちらから引き、こちらから調べ、それはそれは念の入ったものでした。文章がまた一字一句も疎かには書き流されず、消しては張り紙をし、また消しては張り紙をするという風。といって文章は決して苦渋の方ではなく、一旦すらすらと書き流して置いて、後から添削に骨を折られたようです。
 また、習字する事がお好きで、どこかで字の形のいいのを見つけると、それを紙にうつし机の前の硝子に貼り付けておいて、暇さえあれば終始筆をとって習っておいででした。
 住みかについては、理想はおありでしたが、何分金の費途(いりみち)が多かったから、その理想は実現せられなかったようです。お終焉(なくなり)までその頃十一円ばかりのうちにおいででした。ある時は貸家捜しをなさった事もありましたが、とうとうそれも果たされませんでした。しかし決して詰まらぬ外見(みえ)を張ることは好かれず、玄関など少しもお構いなかったのです。衣食住の三つは到底西洋人に叶わないと、常にそう言っておられました。着物も別に美麗(うつくし)いものを着るのではなく、時には随分乱暴なものを引っかけておいでのようでした。
 旅行は好きでしたが、ご承知の通り食道楽の方でうちでもお菜(さい)が二品三品では承知が出来ぬ位でしたから、旅へ出ても食物に困るとのお言葉でした。それでも関西の方へ行かれた事もあるし、一番遠きいのが佐渡が島、それから東京付近へもちょいちょいお出かけなさった。旅のなか、田舎の食物については、随分おこぼしになっていたようです。しかし余程食い意地の発達していたものとみえて、大抵のものはまずいまずいと言いながらも、おあがりにならぬものはないようでした。いつぞやも牛肉のロースで飯を食うのと海苔で茶漬けをかきこむのとが一番おいしいと、そう仰った事があります。

スポンサードリンク

 原稿をお書きになる時は、何時といって定まってはいなかったようですが、まア大抵は夜分でしたろう。時には朝お書きになるのを見かけんでもありませんでした。
 お子どもさんに対する先生の態度ですか。そうですね、世の常の親が児に対するとは、余程ちがっていました。抱くとか撫でさするとかは滅多になさった事はなく、まアどちらかと言うと構わぬ方でしたよ。然しそうかと言って、決して不親切なと言う訳ではなかったのです。自分でもそう言っておいででしたが、子どもに対しては親のなすべき事でしたならば、それで充分だ、なでさすって甘やかすのは、決して褒めた事ではない。殊に来客があった時など、子どもが客の前へ出て菓子を強請(ねだ)るのを非常に嫌われたのです。それにつけて、ある時湯屋に行っておいでると女湯の方で子どもがやかましく泣き出した。すると先生大声上げて怒鳴りつけなすッた事がありましたそうです。そんな風に子どもは一体にお好きの方ではなく、二階で原稿をお書きになって居ても、下でお子ども衆がお泣きになると、どんどん下りて来て時によるとお叩(なぐ)りになるような事があったのです。
 お子ども衆には、最初弓之助さんというがお生まれなすったのですけれども、生まれて間もなくお亡くなり、その次に女の子さんが三人、これには先生も少々力を落としておいでのようでしたが、一番後で夏彦様が、おできなすった。この時分には最初とちがって、大分可愛がりなさったようでした。』

全2回のコラム、いかがでしたでしょうか?意外な紅葉の一面に驚いた方もいらっしゃるかもしれませんね。何はともあれ、最後までおつきあい下さり、ありがとうございました!

スポンサードリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です