徳田秋声の随筆集「灰皿」2

1では、田山花袋の全集について、語っていた秋声ですが、今回は森鴎外の全集を読んでの随筆を書いています。これらを読む限り、秋声のより良い作品を書くために読む、という姿勢を持っていたことが窺えます。

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以下、『』内の文章は昭和13年(1938年)に砂子屋書房より発行された徳田秋声の随筆集「灰皿」より現代語訳をした上で引用しております。徳田秋声の研究の一助になれば幸いです。

『一穂が「阿部一族」を読むために友人から借りてあった鴎外全集の第四巻にある評判の高い「雁」という小説を読んでから、一つ読み二つ読みして、二晩ほどかかって殆ど全部読んでしまった。
 私は若いおりその頃文学青年として「しがらみ草子」に載ったものは大抵読んだのだが、「国民之友」に載った「文づかい」と雅文体の短いものが、博士の作品の公けにされた最初のものではなかったかと思う。「石炭をばはや積みはてつ」という書き出しは多分この「文づかい」であったかと思うが、よく覚えていない。そんなものよりも矢張り「埋れ木」などの翻訳に多く読み耽って、後年書かれた作品も二三読んだだけであった。「大塩平八郎」とか、「護持院原の仇討」とかは印象に残っているが、これも今読んでみると、記述が精確だということと、書き方が自然主義風に冷厳だという外、そう読み応えはしなかった。「阿部一族」「堺事件」「安井夫人」、その他「高瀬舟」「佐橋甚五右衛門」なども、記述が冷厳で、中には何か観念がかったものもあり、批判の裏付けの透けて見えるものもあるが、「護持院原」や「阿部一族」などには更にそうした主観の翳しかみえず、記憶を忠実に並べたにすぎないと思わせるほど、精緻に書いてある。「雁」は人に言わせると好くないというが、私もあれには苦心の痕を認めるけれど、多元的な描写の形式から言っても、いかにも明治時代の小説らしい技巧上の苦労から言っても、あまりに小説でありすぎる観があり、その点で感心するには感心するが、そう高くは買えないかと思う。しかし鴎外さんのものとしては、もっとも好いものでhないにしても、面白いものではある。漱石と紅葉の各の特徴を綜合したような形もある。「阿部一族」はむしろ「殉死」とした方がいいようなもので、殉死が適当な機会を得なかったために、犬死にはならなかったにしても、後の結果が好くなかったという阿部一族の悲惨な運命を描くには、あの時分の殉死をめぐる宿命的な主従関係や、そうした事が武士の一つの見えでもあり、甚だしきは頽廃的な感傷の惑溺でもあると同時に、暗々裏には旧時代と新時代の交代の促進、又は老朽淘汰の方法ともいうべき不文の習慣的制度を説明しておく必要があり、その背景があってこそ、この悲惨な事実の審理がはっきりして来るのだとも思えるが、それにしても少し前景が重すぎる。

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主人が死んで、その子どもが世に出るとなると、前代の従属者の影が薄くなり、時によると邪魔物あつかいにさえされがちなのは、昔も今も同じだろうから、殉死はあの時代のもっとも利巧な引退法かも知れないが、それにしてもあの純忠の精神の陰には、実に陰鬱なものがあり、忍従もあそこまでくると、阿片中毒のように不健全になってくる。あの中には男女の心中と同じような陶酔もあったようである。仏教の諦観や、ニヒリズムもあったに違いない。私は読んで好い気持ちがしなかったし、あれほど冷静に書き得た鴎外さんの心理に敬意を表したものかどうかわからないのである。こんな態度や筆致は、メリメによく似ているのであり、メリメもずいぶん思い切った事を書いてはいるが、それは人間性の悪とか、性格の強さというものから来ているので、東洋風の戒律的忍従からくるものとは違う。勿論殉死者にも、色々の心理があるだろうが、自刃ということには兎に角すばらしい勇気と潔い決心とが必要で、武士は幼少から戦場はおろか、畳のうえでいつでも、死ねるだけの修養をつんでおくのが、封建時代の習わしなのだが、この習わしはあまり人にほこるべき習わしでもないので、私は西洋人に無闇に腹切りを見せるなどもどうかと思うのである。
 鴎外さんがこんなものに興味をもったのには、何か理由があるだろうか。「堺事件」などには、その自殺の仕方があまり悲壮すぎて、却って野蛮に見えるものがあるが、あれはあれとして犠牲の精神があり、反撥の気概もあって、悲痛は悲痛でもそこにはドラマチカルな精神の高揚もあるから、そう陰惨ではない。もっとも仏蘭西革命時代のギロチンなどは、酸鼻の極みで、目をおおわずにはいられないものであり、それから見ると自決の方はむしろ壮美の感があるのだが、封建時代の宿命的な殉死だけは例外である。鴎外さんはたまたまあんな材料があったから書いたものだろうが、伝統の武士の魂もあって、共鳴したのではないとも思えない。(昭和十三年五月「あらくれ」)』

徳田秋声の随筆集「灰皿」3へ続く

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