徳田秋声の随筆集「灰皿」4

今回は、3の続きではありますが、秋声が大病した折の内容が書かれております。また、犀星と自分を比べて年齢を感じたことを仔細に書いており、文豪とアルケミストのゲームで遊んでいると、何となく二人とも同じ年頃のように感じてしまうので、著作を読むと二人の年齢差を思い出し、そうだ!そうだったとなります。

以下、『』内の文章は昭和13年(1938年)に砂子屋書房より発行された徳田秋声の随筆集「灰皿」より現代語訳をした上で引用しております。徳田秋声の研究の一助になれば幸いです。

『犀星氏と私とは最初天外氏を訪ねることにした。犀星氏は既に軽井沢で家族的に懇意になったし、一度庭のことで天外氏が大森の家を訪ねたこともあり、鎌倉へ行くとなれば、どうしても天外氏の新築の家をも訪ねて、敬意を表したいというので、私も久しぶりで氏に逢うことは楽しかった。ただ天外氏は耳が遠いので咽喉や声帯の悪い私には、氏との対談は少し骨が折れ、わざわざ行く気にもなれないでいたのである。すると私は途中でふとこういうことを思い出したものである。一昨年の春長女の結婚式がすんで少し時がたってから、私の不在中に天外氏夫妻がわざわざ祝いの贈りものをもって来られたが、あの返礼をしたかどうか。はっきり覚えがない。それというのも二・二六事件後、社会情勢が何となく重苦しかったのはいいとして、雪の多かったその年の四月になっても、まだ寒さがはげしく、その前からしばしば狭心症に悩まされていた私は、到頭病床についてしまった。私にとっては今までにない重態で、胃腸がどうしても調わず、持病の糖尿と肺気腫に、鈴木博士が部屋へ持ちこんで来てくれたレントゲンの結果では大動脈中層炎もあるというのである。幸いにして健康はある程度回復したが、この病気が私の過去と現在を遮断してしまい、病気前のことで忘れてしまったものがかなり多かった。ダンスのステップや知人の顔なども、忘れがちであった。天外氏への返礼も多分その一つであったのではなかったか、しかし後で家人に聞けば大概わかると思って、天外氏に逢っても別にのいいわけもしなかった。』
 天外氏の新居はことに好ましい位置にあった。というのは、東の方に山があり、庭の一方に裾をひいていると同時に、山がかりのところに、崖造りになっている書斎の窓に、細かい雑木や山草の色が迫っており、北向きの客間の庭にも、磊々(らいらい)たる岩石の急な傾斜面が見られたりするので、山間の趣きがひどく好い感じなのである。前庭の一端からは、相当に高いこの山の頂きまで登って見られるように新たに石段を造った小径の曲折があり、私はよじ登るのに骨が折れたが、天外氏は若くて精悍な犀星氏に負けず、ひょいひょい身軽に登って行くのである。足を踏みはずすと危ないような処も間々あった。私も名も知れぬ山草の生えた山路は好きだが、この道を登ってみても、体の硬化していることが解るのであった。

 天外氏が我々の訪問を悦んでくれるので、かえって三人でその庵室を見かたがた細野氏を迎えに行くことになり、行ってみると、そこは私も一度訪ねたことがあり、羨ましい境地だと思ったのだったが、これはまた庭も茶室も本格的なもので、簡素であると同時に、自らなる別天地であった。茶室を出て、庭石や燈籠などを見てあるきながら、燕台氏と犀星氏の話しを聞いていると、燕台氏の石に関する知識と鑑賞だけでも、一つの立派な随筆ができそうである。小田原の無鱗庵の手入れに来ている金沢の庭師の噂、郷里の横山家の処分品として、今星ヶ岡茶寮の入口にすわっているおおきな石の話しなどにも、かかる風雅の道に遊ぶ人の快楽が想われるのであった。氏の住居は茶室のある一棟と後に高い岩層のそそり立っている奥の方の茅葺きの家族の住居と、今一つ最近に金沢から職人を呼び寄せて造ったという一棟と、都合三棟だが、いずれも垢ぬけしたもので、飽きの来ないように出来ている。勿論そう金のかかったものではないだろうが、私などには物質の点でも、趣味の点でも手の届かないものがある。犀星氏は私かに嘆じて病膏盲に入っていると言っていたが、そんなものでもあろうか。
 酒の仕度らしい気勢なので、事情を話して、細野氏をさそい、四人うちつれて最明庵を辞し、天外氏宅へ戻り、夫人の手厚いお手料理で、三人は呑みながら話し、私は白葡萄にウイスキーなどを勧められ、一口二口嘗めているうちに、少しほっとして来た。やがて洋室へ来て、椅子にかけ、お茶を呑みながら、料理や酒や庭の話しがつづき、中でも京都の苔寺の苔の話しが私を噴笑(ふきだ)させた。
 「呆痴(こけ)な話しだ。」
 つい微声で拙い混ぜ返しを入れると、声の早耳とかで、天外氏もふふと笑っていた。
 私達はかくて楽しい半日半夜を過ごし、燕台氏に送られて、北鎌倉から乗ったが、燕台氏は汽車の来るまで、駅前の休み茶屋で犀星氏にも差し、惜別の盃を挙げていった。
 私は雨中あっち此方少しは歩いたせいか、又は天外氏の客室に迫っている崖の湿気のせいか、それとも二口三口なめた洋酒のせいか、又しても胸をわるくしてしまった。恐らく山と海との鎌倉の風は、すえた都会の空気に馴れた私には少し荒いのであろう。(昭和集三年五月「あらくれ」)』

磊々(らいらい)・・・石が多く積み重なっている様子。また、心が広く小さな物事にこだわらないさま。

徳田秋声の随筆集「灰皿」5へ続く

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