関登久也が語る宮沢賢治2

関登久也氏は、宮沢賢治と同郷で氏の生前を知り、尚且つ賢治氏に関する細々とした随筆を残しています。今回は、主に法華経にまつわる賢治氏の姿を伝えています。

以下、『』内の文章は1941年に十字屋書店から発行された関登久也「北国小記」より宮沢賢治関係の随筆のみ、現代語訳した上、引用しております。宮沢賢治の研究の一助になれば幸いです。

『 
 賢治氏の声は立派なものでした。自作の唱歌など歌うときよりも、経文を読誦する時の声はなににたとえていいか類はありません。
 観世宗家の謡を聞きましたが、あんな声にもっと力と艶をもたせた声とでも言ったらいいか、とにかく凜々として底の方から魂をゆすぶるものでした。清浄無類で声に深みがあり、抑揚があり、力がこもるというわけですから、感動したものは勿論私だけではありますまい。又愚妻がこんなことを申しています。それは令妹とし子さんが亡くなり、柩を火葬場に送る時、賢治氏は柩に手を掛けながら、火葬場へついてゆき、そこで柩が火に燃え切るまで経を通しました。十一月の終の頃ですから、みぞれが降っていたらしく、その暗い夜空の下でいい声でお経をよむので、有り難くせつなく、誠に言うに言われぬ感動が湧いて来たと、とし子さんの命日などにはよく繰り返して申しています。私の養父が亡くなった時も賢治氏はお経を上げてくれました。その日は夏で、煮えかえるような暑い日でしたが、声が凜としてよかったものですから、涼風がわいて来て汗もきえ、何だか天地がさわやかな初秋に入ったような感じがしたのです。あの時ももろもろの佛たちが一杯に天から降りて来られたようで、私は感激のあまり嗚咽したと思います。

 同 情
 三十代までの私は、親兄弟、親類にまで心配をかけ、とりわけ賢治氏の父上などには、なみなみならぬ心配をかけました。別段赤に走ったとか放蕩したとかいうのではなく、商売上の仕事を無暗にただ手を広げて、収拾のつかないようなことをしたのがその主なる原因でした。その中にあって賢治氏は陰ながら常に私を弁護してくれました。それらの幾多の言葉の筋は忘れましたが、私の心底を判ってくれた言葉は有り難く、それを人づてに聞く度に、私はどんなに感激したか知れない。賢さんは有り難いなあと誰にいうともなく独語したことは再々ならずありました。だから賢治氏に死なれたときは、賢治氏のようないい人を、この世から失った悔しさよりは、私自身の為に多く悔しかったと言うのは、けだし正直な私の心境だったと思います。
 私はその後段々自らの愚を悟り賢治氏の父上からも親兄弟からもどうやら安心して貰えるような人間になったのは、賢治氏の深い同情の念が、私を幾分でも良くしたのだと思います。

 国 柱 会
 法華経によって人類究意の道を発見した賢治氏は、田中智学氏を主とする国柱会に重大な意義を認め農林卒業の頃入会したと思います。
 よく我々の耳に国柱会(コクチュウカイ)だとか国柱会(クニバシラカイ)とかいうような固有名詞が耳に入り、そのたびごとに何の事だろうと怪訝に感じておりました。私には別段法華経を信じろと薦めもしませんでしたが、賢治氏自身では私を仲間の一人だと思って、自然に私などを宗教上の話し相手にしてくれました。それで結局国柱会の信行部へ二人で入り、会から本尊とすべき御曼陀羅を頂戴しました。その御曼陀羅を町内の某と言う経師屋へ持って行き小さな軸にしてもらいました。若い賢治氏は経師屋の主人へ向かって「これは本当に大事なものだから粗末にしないようにしてください。糊なども腐らぬものを御使い下さい」と懇ろに頼んだのを覚えています。幾日かして軸は出来上がり、まず最初に賢治氏の御曼陀羅を勧請しました。その日の読経その他の態度は実に荘重で立派で後に控えている私はその立派さに撃たれたものです。それから数日たって、私の御曼陀羅も勧請してくださいました。その御曼陀羅は今も私は本尊にしています。賢治氏の佛間にもそれが掛けて有り、礼拝する度にその当時の事を想いうかべます。』

関登久也が語る宮沢賢治3へ続く

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