関登久也が語る宮沢賢治3

関登久也氏は、宮沢賢治と同郷で氏の生前を知り、尚且つ賢治氏に関する細々とした随筆を残しています。今回は、「春と修羅」の出版に当たっての苦労や車中での賢治との思い出話しを綴っています。

以下、『』内の文章は1941年に十字屋書店から発行された関登久也「北国小記」より宮沢賢治関係の随筆のみ、現代語訳及び今回は誤字を訂正した上、引用しております。宮沢賢治の研究の一助になれば幸いです。

『 春と修羅
 「春と修羅」は花巻停車場通りの印刷業者吉田忠太郎氏が印刷しました。賢治氏は毎日印刷所へ出向いて校正したり、様々の手伝いをしてかなりの日数を経て出来上がりました。校正刷りを持って来て、私の店へ立ち寄り毎日毎日見せて下さいました。表紙は青黒いザラザラとしたてざわりの物が欲しいと申しておりましたが、なかなかそんなのを見あたらず、丁度その頃私が商用で大阪へ参りました時、歌人尾山篤二郎の(私の恩師)御世話で、私の友人富谷三郎君にあの布地を見つけてもらいました。賢治氏の希望に合うのは唯ザラザラしたてざわりのところだけで色などは全然違います。それでも廣田松五郎氏に図案を書いて戴き、せめても青い色地を出そうとしましたが、布地がザラつくので色はちっとも地にのらずこれも失敗しました。背中の文字は尾山氏がマッチの軸で書いて下さいましたが、一番上の所の心象スケッチと書くべきものが、詩集となっているので後で賢治氏は金粉を塗って消されたりしました。どうも出来上がりが賢治氏の期待に反するのですが、賢治氏は少しも悪い顔をせず「有難う」「有難う」とばかりおっしゃるので、私もその度ごとに「申訳ない」「申訳ない」と思いました。

 車 中(一)
 私は仙台まで行く時、偶然車中で賢治氏にお会いしました。水沢の少し手前までは雑談に時を過ごしましたが、五月の汽車の窓は、春の光がいっぱいで間近に往還もその向こうの畑も林も、一切は麗らかで遠い中央山脈には白雪が輝いていました。その時賢治氏は歌を作りませんかと言われるので、私はほんとうに短歌のことかと思い刮目の景を「白雪は空に飛びつつ麗けし松の木原に光る雪山」と手帖に書いて出しました。「ハハア短歌ですねこれは写実の歌だ、これは俳句の境地だ。」と言いました。その時の賢治氏の作は忘れましたが、七五調の短詩で農民の悲哀を題材にしたものだと記憶しています。全集を見てもその詩は見あたりませんが、詩中”税吏””三百””馬の背”という語句がありまして、一面沈鬱な気分がありながらハイカラな詩だと思いました。私の几帳面な歌とは違ってかなりユーモアな詩でありましたので、「ああ、そうか、車中の作だからもっとくだけて自由な立場で創るのがよかったのだ」と考えている内に一ノ関間近になり、賢治氏は大きな黒いカバンを網棚から下ろし始めたのでそこで中止しました。前に書いた短詩の様に”三百”とか”税吏”とかいう詩句は賢治氏の好んで取り扱うもので、あの時、私も自在に言葉を駆使して詩が作れたら随分面白い時間がたとえ三十分でも過ごせたろうと今に残念に思います。
 賢治氏は一ノ関で降りて千厩の石灰採掘所へゆかれるのでした。車中で身体も健康になったし、これからは石灰をうんと売って儲けようと思いますと冗談に申されました。これはたしか昭和六年の五月か六月頃のことです。』

関登久也が語る宮沢賢治4へ続く

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