関登久也が語る宮沢賢治4

関登久也氏は、宮沢賢治と同郷で氏の生前を知り、尚且つ賢治氏に関する細々とした随筆を残しています。4は、3に引き続き関氏が賢治氏と車中で出会った時のエピソードを披露しています。賢治氏が持っていた、お茶目な一面が伝わってくる内容です。

以下、『』内の文章は1941年に十字屋書店から発行された関登久也「北国小記」より宮沢賢治関係の随筆のみ、現代語訳した上、引用しております。宮沢賢治の研究の一助になれば幸いです。

『 車 中(二)
 この話しは大正十四年の頃のことです。賢治氏は農学校の同僚の先生白藤慈秀氏と共に上京される時でした。私は私の取引先星製薬へ行くのです。多分夕方五時頃の汽車であったと思います。一ノ関近くまで参りますと三人はそろそろ退屈し始めました。だんだん寝場所を取る溜め満員の汽車の中で三人は別れ別れになりました。暫くして寝場所を捜し終えた賢治氏は、私の前に来て白藤さんを少し揶揄して遊びましょうかと言ってニヤニヤしたいたずら顔になりました。真面目な賢治氏はたまにそんな顔になって無類な上代をやりますのでそんな時は私達は困ったものです。その時の賢治氏のこまかなしぐさは忘れましたが、何でも若い女人が白藤さんを恋し始めているのがそれでも白藤さんはだまっていていいだろうか、当の女の人は若い美しい人であるが何とかしなくてもいいだろうか、という様な事を手帖の紙に書いてわざわざ白藤さんの所に見せに行くのです。そして帰って来ては私へ「白藤さんは本気にしていますよ。」と言って一人でゲラゲラ笑っていました。その内にお互いねむくなって寝てしまいましたが、翌朝顔を会わせると随分白ばくれた調子で「夕べの女の人は何処へ行ったろう、おかしいな。」と言ってニヤニヤしながら車中を見回したりしていました。そんなことをする時の賢治氏は完全にいたずらっ子の顔貌をしていたものです。

 車 中(三)
 盛岡へ行く時満員の汽車へ二人はかろうじて向き合って腰かけました。そこへ食堂車の給仕が朝食の仕度ができたという紙片をわたしながら来て、私へ渡しましたが、賢治氏へは渡しませんでした。すると賢治氏は「貴方はふとって立派だからブルジョアと思われたな。」と言って笑いました。その頃はブルジョアという言葉が大流行の時でした。又私も太っておりましたから、あるいはそうかなと思いました。その頃の私はどうにもこうにも商売のことにばかり熱中せざるを得なくなっておりましたので、後から考えてみると、商売に専心するのがいいが大事なことは忘れないでおいでなさいという意味合いがそんな冗談事の中にも含まれておりましたことで、私も後で気がついて何時もながら有り難い人だと感謝しました。
 その頃の私は商売の手を広げて少しいい気になっていたと思います。これは車中の話しではありませんが商売が苦難に落ち入っていた頃、私は汽車から花巻駅へ下りました。ホームを少し歩いて来たら賢治氏に会いました。そしたら賢治氏は「貴方はアメリカの土を歩いている様な格好をしている、何を考えていたのですか。」と言われて始めてその頃終始一心に仕事の行き先ばかり考えている私をはっきり知る事が出来、ふとその一言で私というものを眺めているだけの余裕をとり戻すことが出来たと信じています。アメリカの土を歩いているという言葉は今でも時々思い出しては賢治氏を追憶します。

 読 書 力
 法華経についてのあらゆる本を読破されておりましたが、田中智学氏の「法華式目講義」という確か七巻からの大ものを、七回も繰り返して読んだといつか申されておりました。宮沢氏のもとの店は古着などを商っている薄暗い店でしたが、そこへ粗末な机一つ置きいつも読書しておられました。その式目講義もその暗い店で読まれたのです。いつか館坂を十数冊の本を重ねて持って下さって来られるのに会いましたが、その本を見せて頂くと、みな新しい詩人たちの詩書です。高群逸枝という人の詩書もあって、それだけは覚えていますがあとのは忘れました。
 ひところ「大菩薩峠」が流行の書になって、私たちは音なしの構えとか、机龍之介とか、お銀様とか三人会えばそんな話しをしていたころです。五冊か七冊のその大菩薩峠を賢治氏はわずか二時間か三時間で読破されたそうだと言って私達は瞠目したものです。そのほか大菩薩峠の歌曲を作ったりしているのですから、みんな凄いなあと言いました。
 聖語と言われている「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ・・・・」詩の前の句のところに「ヨクミキキシワカリ」というところがありますが、宮沢氏の勉強振りは正にかくの如くであったと思います。
 誠に異常な読書力であり理解力であり記憶力でありました。』

関登久也が語る宮沢賢治5へ続く

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