関登久也が語る宮沢賢治6

関登久也氏は、宮沢賢治と同郷で氏の生前を知り、尚且つ賢治氏に関する細々とした随筆を残しています。今回は、林檎に関する意外なエピソードをご紹介します。

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以下、『』内の文章は1941年に十字屋書店から発行された関登久也「北国小記」より宮沢賢治関係の随筆のみ、現代語訳した上、引用しております。宮沢賢治の研究の一助になれば幸いです。

『 短 歌
 賢治氏と親しく話し始めたのはその報恩寺行きの私の十九歳の時からですが、その盛岡に滞在中にその後二度ばかりお会いしました。そして農林の交友会雑誌に賢治氏の短歌が掲載されてあるのを見せてもらって自分も歌を作りたいものだと考えました。その交友会雑誌にある歌は写真を撮ろうと並んだら虹があらわれたという様な清爽な歌が多くありました。その後二三年経ってお家へ帰られてから、令妹とし子さんが集録した賢治氏の短歌集を見せられました。「春と修羅」以前には全く短歌だけ作っておられたと見えます。
 私が法華経に入った動機も多分に賢治氏との因縁関係があるし、短歌の作り始めも前に話した様なことを考えればやはりのっぴきならぬ因果関係はあるのだと、今更始めて思い出した訳です。

 地 質 調 査
 農林卒業後凜とした賢治氏の姿が毎日町に見えぬ日はありませんでした。多分ゲートルなんかを脚に巻いておられたのでしょう。身のこなしが潑剌としているので私は常に凜としているという言葉で賢治氏の姿を現わします。土性調査は農林の関豊太郎博士指導の下に裨貫郡(ひえぬきぐん)内はもちろん県下にわたってなされました。朝、山歩きの装束に身を固め、活発な歩行でやって来て微笑しながら、「お早うございます。」と言うあの声とあの顔は何ともいえない良い感じで今も私の目にありありと浮かんでまいります。土性調査の仕事は随分色々の意味で農家の人にはもちろんその道の人たちに多大の裨益(ひえき)を与えたと申します。

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 笹 の 葉
 盛岡高等農林を卒業したのは、大正七年賢治氏二十三歳の時ですが、私の養家は石鹸や髪油等を商っておりますので、賢治氏は時折尋ねて来ては「どうかお店の商品を見せて下さい。何か製造するのに参考になる物があるかもしれませんから。」と言って店の隅々から色々の商品を引っ張り出してはその品に一応の説明を加え、山野の植物、鉱物等から採り得る商品の説明をしました。そのうち覚えているのは笹の葉から採る油の事です。その製造工程もくわしく聴いたのですが今は忘れました。とに角あの山の笹の葉から油が採れる話しは私達を大変喜ばせ、賢治氏の思い出の中で最も強い印象を受けているものですから、話しはかなりの理想論も加わって、相当私達を感動させたのだと思います。

 林 檎
 果実は好きでよく食べられましたが、味覚を楽しむというよりはあの果実の新鮮さにかぶりつくという様な食べ方をしました。
 昭和七年頃の秋の夜、上町通りでお逢いしたらこれから東公園へ行きましょうと言って、果実店で色の良い林檎を五つばかり買われました。そして公園のベンチに腰かけながら賢治氏は三つ私は二つ食べました。その夜は真に水のしたたる様な気分のする夜で、高い空には、星と星とがぶっつかっては火花を散らしている夜でした。天文学にも明るい人ですから星の話しも随分聴きましたが、今は良く覚えておりません。ただそういうさわやかな秋の夜に、皮のままの大きな林檎をたちまちの内に三つも食べ終えた賢治氏の食欲に、少し驚きの眼を見張ったことが未だに忘れられません。私が二個を食べたのは賢治氏に刺激されてのことだったと思います。』

裨貫郡(ひえぬきぐん)・・・岩手県にかつてあった郡。現在の花巻市の一部地域を指す。
裨益(ひえき)・・・助けとなり、役に立つこと。

関登久也が語る宮沢賢治7へ続く

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