関登久也が語る宮沢賢治7

関登久也氏は、宮沢賢治と同郷で氏の生前を知り、尚且つ賢治氏に関する細々とした随筆を残しています。今回は、賢治氏の法華経に関して深く心を寄せていたことが解るエピソードです。

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以下、『』内の文章は1941年に十字屋書店から発行された関登久也「北国小記」より宮沢賢治関係の随筆のみ、現代語訳した上、引用しております。宮沢賢治の研究の一助になれば幸いです。

『 書 体(一)
 賢治氏は書を稽古はしなかったと思いますが、書風は最も私淑する日蓮聖人の書風に意をとめておられたと思います。今見ると賢治氏の書は中々に風韻があり、無欲恬淡(むよくてんたん)に生活を終始された賢治氏の風貌を最も良く表現しているのだと思います。
 賢治氏は生前ご自分の書を、「不味い、不味い」と言っておられました。私の養父岩田金治郎が亡くなりました時、葬儀の次第を賢治氏の立案に依って書きました。そして法華経寿量品の自我偈(じがげ)のところなど、大きな紙に清書して皆でそれを共に読誦しようという事になりまして、私はその書き方を命ぜられました。私も真剣な気持ちで「自我得仏来……」と賢治氏が読むがままに書いておりましたが、どうも知らない文字が出て来てしばしば停頓(ていとん)しますので今度は賢治氏にお願いしました。賢治氏は俺は文字はからっきり駄目です、と言って中々お書きにならなかったが、その中に時間も立つので一瀉千里(いっしゃせんり)にその自我偈や、神力品など全部一人でお書きになりました。それは決して謙遜なさる様な不味い書ではなく実に立派に出来上がりました。
 その書は惜しいことには今に見あたりませんので残念に思っています。筆で書いたものでは、その時のものは一等立派でもあり、字数も多かったので尚心惜しく思っています。
 賢治氏の書風は、日蓮聖人の書風に意をとめられておられただろうと言うことは之は私の独断でありまして、生前賢治氏は私は日蓮上人の書を学んでいるとも随喜しているともおっしゃらなかったから之は私だけの想像に過ぎません。

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 書 体(二)
 晩年書を学ぼうと思われたらしいのは、しばしば書道の本を見ておられたのに依ってもそう思うのは至当でしょう、また書きすての原稿に墨字で茂吉や白秋の歌、またご自分の歌や俳句を書いているのに依ってもそう思われます。
 ただ習字の期間が晩年一、二年のところだけで終わったのですから、賢治氏としては決して満足はしておられませんでしたろうし、相不変俺の書は不味い不味いと言っておられたようです。
 色紙短冊に書かれて残っているのは十数葉しかないのですから所持者は大切に保存されるように願います。

 臨 終
 臨終と言ってもこれは、私の養父岩田金次郎についてであります。父は生前神仏を礼拝するとかいう事のない人でありましたが、よく己を知る人で、学問もしない人でしたが、真の善人でありました。十四五年病床に臥していまして、晩年賢治氏に会うと、冗談の如くお前さん達ばかりいい事をしないで俺へもそのいい事を聞かせたらいいだろうとよく笑いながらいいました。いい事というのは、つまり法華経の事であります。父が病勢悪化し段々最早今度は生き得ないと悟ったあたりから、よく賢治氏へいい事を教えろいい事を教えろと言うのでした。賢治氏は別段父へ深く法華経の説明はしなかったと思いますが、或る時法華経は仏教の最王経で法華経なくして仏教はなりたたぬ事、また仏教は妙法蓮華経の五字で表わされたこの五字の中には仏の一切の力が含まれていること、この五字を身口意の三業に保てば、必ず人間は最上の仏位に行けるのでつまり題目を唱えるのが一番いい事ですと言ったら、父は賢さんはいい事を教えてくれた、と言ってそれからは毎日思い出してはお題目を唱えていました。その内だんだん衰弱して頭の働きもにぶくなり夢中にお題目を唱え、忘れる事があると賢治氏に紙片にお題目を書いて貰ったものを横臥して見ながら唱題しました。この事は息を引とる時まで続けました。』

無欲恬淡(むよくてんたん)・・・欲が無く、あっさりとして物にこだわらないこと。
自我偈(じがげ)・・・法華経の寿量品は「自我得仏来」で始まるため「自我偈」とも呼ばれています。
一瀉千里(いっしゃせんり)・・・物事が早くはかどること、また文章や弁舌がよどみないさま。

関登久也が語る宮沢賢治8へ続く

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