関登久也が語る宮沢賢治8

関登久也氏は、宮沢賢治と同郷で氏の生前を知り、尚且つ賢治氏に関する細々とした随筆を残しています。今回は、法華経が絡むとまるで人が変わったかのようになってしまう、若かりし頃の賢治氏の思い出です。

以下、『』内の文章は1941年に十字屋書店から発行された関登久也「北国小記」より宮沢賢治関係の随筆のみ、現代語訳した上、引用しております。宮沢賢治の研究の一助になれば幸いです。

『 法 論(一)
 大正十年は宮沢氏二十六歳の時ですが、その年上京前までは法華経第一主義を翳してしばしば先輩友人知己と法論を交わしたものであります。厳父政次郎の親友であり、真宗の信者阿部晃先生との法論などは、手に汗を握るものがありました。阿部先生はその頃の花巻仏教会の第一人者であり長い間の教員生活を──教員生活と言っても先生は花巻隣村の素封家の長男で二高半途退学の小学教員であり、名利に淡泊で十数年の教員生活を代用教員で終始した程の人で、町民全体からも非常な尊敬を受けておりました。また豪腹な人で押しも強く官僚などに屈服する人ではありませんでした。
 ある夏の夜多分大正九年頃の事だと思います。私の店で安部先生が買い物をしておられるところへ賢治氏も来られました。慇懃に先生にお辞儀をされてしばらく雑談をしてろいましたがふと私のところに来られて「貴方から先生にこれを上げて下さい。私がお話し申し上げますから。」といって差し出されたのは「法華論叢」という本でした。なんだか私も決まりが悪かったがおそるおそる阿部先生の前に行って「どうぞ先生これをお読み下さい。」と申し手許に渡しました。先生はしばらくその本を手にとってページをめくって見ておられました。
 そのところへ賢治氏は微笑しながら行って、「先生、それは私ども信仰の法華経について田中先生のお書きなられたものです、どうぞお読みになって法華経の研究をお願いいたします。」と言いますと阿部先生阿h、「ハア、貴方は法華の信者ですか。」と言って大人が小人をあしらう様な態度をされたと思います。

 しかし賢治氏はそれを切っ掛けに仏教は法華経を首位にして始めて成立する事、その他色々と話されましたが、安部先生も仏教にかけては相当の年月をかけておられた人ですから、賢治氏がああ言えばこう言いなかなか議論が果てべくもありません。だんだん阿部先生の方が激烈な口調になり賢治氏の方はまた一歩もひかぬという様なはらはらする様な場面になりました。その時のお二人の法論の内容は今記憶には判然としませんが、その態度顔貌(かおかたち)はよく眼に残っております。
 果ては阿部先生の眼には涙らしいものさえ光ったと思っています、先生は髭面で身の丈高く魁偉(かいい)な顔貌(かおかたち)をしていましたからことにその涙らしいものは私の記憶にははっきり残っています。
 賢治氏は久留米絣の色白の二十三、四歳の青年ですから、その取り合わせもなかなか興味がある訳です。結局阿部先生はぎりぎり押えつけられた気持ちになったと思いますが、勿論賢治氏の説には屈服いたしませんので賢治氏は「先生それではこれだけ申し上げておきます。」と言って、法華経を無視することは堕地獄の根源であると申し、立派なお辞儀をし、それでは御免被りますと言ってぷいと外へ出てしまわれました。手に汗を握ってどうなる事かと思っていた私は、ほっとして阿部先生の顔を見ると先生は眼をそらして続いて外へ出て行かれました。』

魁偉(かいい)・・・顔や体が人並みはずれていかついさま。

関登久也が語る宮沢賢治9へ続く

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